愛しようとしないことが愛
はいどーも。
今日はちょっと愛について話してみましょうかね。
大きなテーマですが、まあお茶でも飲みながら気軽に読み流していただければと思います。
起・愛さなければならないという苦しみ
「愛さなければならない」
「しかし、愛し方がわからない」
「というより、そもそも愛が何なのかわからない」
そのように苦しんでいる方もいらっしゃるかもしれません。
よくわかります。
僕もその一人でしたので。
その苦しみはあなたの優しさと真剣さの証です。
どうぞご自分を責めませぬよう。
そして、あなたは苦しくて当然です。
愛とは理屈でもなければ、義務でもないのですから。
愛は僕たちに何かを強制しません。
「ねばならない」ものとなった途端に、それは愛ではないのです。
ならば、「愛さなければならない」という思考を少しずつ手放してはいかがでしょうか。
いっそ、愛しようと努力することをやめてみてはいかがでしょうか。
逆説的ですが、それによって愛を理解するかもしれません。
では、気が向いた方は以下へお進みいただけると幸いです。
承・大自然に学ぶ愛
愛とは何か。
僕たちは大自然からそれを学ぶことができます。
大自然には分別がありません。
太陽は皆に等しく光を注ぎます。
水はすべてを潤します。
大気はあらゆる空間を満たします。
大自然のバランスを保つためにときおり起こる天災も、意図的に特定の何かを狙うということはありません。
大自然はこのように平等なのです。
そして見返りを求めません。
太陽は「光を注いでやったのだから、俺に便宜を図れ」とは言いません。
分け隔てなく、かつ、求めないこと。
これが愛です。
こう言うと、あなたは気が遠くなるかもしれません。
「そんな聖人君子、なれるはずない」と。
気持ちはわかります。
どうぞご安心を。
このようになる必要はないのです。
僕自身もそんなにできた人間ではありませんので。
それでもちゃんと生きていますんで。
ただ、愛とはどういうものか、何となく知っていただくためにあなたにご紹介しただけです。
むしろ、そのようにできない自分を許してあげてほしいと思います。
それこそ愛です。
転・思考は愛ではない
では愛ではないものは何か。
評価・判断し、または見返りを求めること。
それは思考です。
思考はものごとを識別・分類します。
そして自分に都合のいいものを優遇します。
嫌いなものを差別・排除しようとします。
「これだけしてやったのだから、返してもらって当然だ」と信じています。
思考は愛ではありません。
いくら愛に似せても、思考であるかぎりそれは愛ではないのです。
だからことさらに何かを愛しようとしないことです。
愛しようとすること。
それは意志であり、思考です。
愛しようとすることは、既に愛ではないのです。
言葉で何回愛と唱えても、それ自体は愛ではないのです。
なぜなら言葉は思考だからです。
このようにお伝えすると、またあなたに迷いが生じるかもしれません。
「ならば思考は悪なのか。排除しなければならないのか」と。
そんなことはありません。
思考はただ愛ではないというだけで、悪などではないのです。
むしろすばらしい道具です。
愛ではないものは存在してはならない。
この考えこそ、愛の欠如です。
だから思考はあなたの心に存在していいのです。
たとえ自分にとって都合が悪くても、存在を認めること。
それも愛です。
結・ただ坐ることは、愛に近づくこと
では、完全なる愛を体現するにはどうすればいいでしょうか。
身もふたもない言い方で恐縮ですが、僕はそのようなものは目指さないのがいいのではないかと思います。
そういった目標は、「今ここ」のすばらしさを無視する可能性も秘めていますので。
しかし、少しでも愛に近づきたいというのが人情というもの。
ならば、あれこれ理屈は手放し、坐ってみてはいかがでしょうか。
そして、自分の思考を思考だと気づき続けてみてはいかがでしょうか。
なるべく起こった思考に評価も善悪判断もせず、
その内容を変えようともせず、
ただ自分の心の中を流れる物体のように眺め、触れてみるのです。
するとあなたは、気づくかもしれません。
愛しようとしていたとき、自分が愛だと思っていたものは、実は思考だったということを。
キレイな言葉で愛を語ることだけが愛ではないということを。
本当の愛とは、思考を超えたところにあるのだということを。
そして、愛さなければならないという努力を手放したとき、愛は現れるということを。
大丈夫です。
あなたなりに誠実に生きていれば、必要な時におのずと愛は感じられます。