空虚な詩⑦ 利他であろうとしない
空虚な詩は、ここまでとしよう。
あなたはこの詩をわかろうとしなくていい。
僕は誰かに模範を示しているわけではない。
模倣するように求めているわけでもない。
できるかぎり、ありのままのあなたをごまかさずに観てくれたなら、僕はうれしい。
ただそれだけ。
利他であろうとする苦しみ
人のために生きる。
現代ではこれが、美しいことであると考えられているのかもしれない。
僕もまた、そう信じてきた。
そして、人の役に立たなければならないと思い、他者にじゅうぶんに貢献できていないと感じる自分を裁いてきた。
それは地獄だった。
利他的行為が義務と化し、生きることにまるで喜びを感じられなかった。
だから僕は、そうした貢献ゲームにも疲れ、誰かのために生きることをやめた。
僕は国家のために生きない。
社会のためにも生きない。
在籍する組織のためにも生きない。
人のためにも生きない。
誰のためにも生きない。
このように言うと、思考は眉をひそめるかもしれない。
「なんて利己的なんだ」と。
誤解のないようにお願いしたい。
この「誰のためにも生きない」の、「誰の」のなかには、自分自身も含まれる。
僕は、他者のためにはもちろん、自分のためにも生きない。
ただそのときどきで、状況に逆らわず流れ漂う。
できるかぎりで自他を害さないようにだけ注意して振る舞う。
利己も利他も要らない
僕たちは、人のために行動することを、利他だといってもてはやすのかもしれない。
だから、自分のための行為をエゴだとみなして毛嫌いし、ことさらに利他であろうとするかもしれない。
僕も以前はそう思っていた。
しかし、今は違う。
何が利己的で、何が利他的なのか。
そんな定義はどうでもいい。
利己や利他の善悪もどうでもいい。
とにかく僕は、利己であろうと利他であろうとどうでもいい。
いちいち行為を利己だ利他だと区分する気が起こらない。
もし自分のために生きることをエゴだというのなら、取り立てて人のためにあろうとすることもまた、本質的にはそれと同じではないだろうか。
それもまた、エゴではないだろうか。
なぜなら、他者とは自己があるからこそ存在できるもの。
利他を強調することは、同時に自分という意識を強調することにほかならない。
だから僕たちが、意識して利他的であろうと努力するならば、裏腹に自我意識は強まっていく。
これが思考の罠。
誰のためにもないこと = 利他
あなたは無念を噛みしめる。
「そんな馬鹿な」
「私はよかれと思ってやっていたのに」
あなたの気持ちはよくわかる。
そして、あなたは何も間違ってはいない。
ただ、現代社会でまことしやかに語られている常識というものと自然の摂理が、あまりにも違いすぎるだけ。
ならばもう、ここらで一服つきますか。
誰のためでもなく、ただ坐ってみますか。
そして、自分の内面に起こることを、肯定も否定もせず、ただ気づき続けてみるとしますか。
いずれあなたは理解するだろう。
「誰のために」という意味付けのむなしさを。
そのときあなたは、「これが自分である」という主張や自他の区分が、自分の心のなかで希薄になっていることに気づく。
そして、あなたはその場の状況に溶け込み、ただ行為し、存在している。
「誰のために」などという考えが、起こらなくなっている。
あなたの心に利己も利他もないとき。
あなたの存在は、真の意味で、全体のためになっている。
そのときあなたは、大自然と一体である。
そこには余計な行為は要らない。
なぜなら、誰のためにもないあなたの存在は、大自然そのものだから。
大自然は、それそのものが利他。
だからあなたの存在もまた、利他そのもの。
空虚な詩の結び
こんな風変わりな詩を最後まで聴いてくれてありがとう。
この詩には、あなたに変化を起こさせるような力はない。
だけど、僕は願わずにはいられない。
美化することも、貶めることもできないあなたの本心。
あるがままのその絶対領域にあなたが気づき、そこに触れることを。
そして、あなたは前からずっと、望ましいあなたであったのだと気づくことを。
あなたは本当に、何も変える必要はない。
ただ観るだけでいい。