空虚な詩を僕は歌う。
もしかするとあなたは、聴くに堪えないかもしれない。
申し訳ない。
それでも僕は、この詩をやめることはできない。
前向きであろうとすること。
そのことを、本心では窮屈に感じている人。
にもかかわらず、そう感じることに対して罪悪感を抱いている人。
本当は疑問を感じつつも、強迫感から前向きであろうと努力している人。
そんな人の何かに響くものがあるならば、僕はそれでじゅうぶんだ。
僕たちは、前向きでなくても生きていける。
前向きも後ろ向きもなくなったとき、僕たちは、おのずと自分に適した方向に進み出す。
あなたがそのことを理解するきっかけになればこれ幸い。
むなしいということ。
現代社会では、きっとそれは嫌悪されていることだろう。
「むなしいことは不幸なこと」
そのように信じられているのかもしれない。
だから、僕たちはむなしさを埋めようとする。
むやみな行動によって。
もちろん僕もそうしてきた。
しかし、その行動の結末は、やはりむなしさだった。
だから、また代わりとなる行動によってそれを満たそうとする。
その繰り返し。
そうしたことを続けてきて、あるとき僕は思い始めた。
むなしさを埋めるための行動は、結局は新たなむなしさを生むだけなのではないのか。
むなしさとは、本当に忌み嫌われるようなものなのか。
むなしさをそのままにしておいたらどうなるだろう。
むなしさを変えようとせず、
消そうとせず、
追い出そうとせず、
自分の心に居させてあげたらどうなるのだろう。
そこで僕は実験してみた。
むなしさに抵抗せず、ただそれとともにあり続けた。
たとえ気持ち悪くても、忍耐づよく。
はたから見ると、ただの覇気のない中年男性かもしれない。
それでもかまわなかった。
もうそれ以上、むなしさを上塗りするような行いをしたくなかったから。
ただむなしいまま坐り、横たわった。
坐るのにも疲れたら、今無理なくできることだけをやった。
包丁を研いだり、庭の草木に水をあげたりした。
すると、野心という名の思考が誘惑してくる。
「もっと俺の才能を活かせるものを探そう」
「俺は本来活躍をして、注目されるべき人間だ」
「奉仕活動をすればヒーローになれる」と。
しかし僕は、それが思考の罠であることを理解している。
もうその手に乗らない僕は、その誘惑に応じず、また逆らいもしなかった。
引き続き、むなしさに浸る。
そして坐り、横たわる。
すると、それはじわじわと起きてきた。
何だろうこれは。
心に引っ掛かりがなく軽快だ。
しかし、ひたすらに穏やかだ。
ムラムラとするような、あの攻撃的な高揚感はない。
むなしさという空間から、泉のように湧いてくる。
それは思考を超えていた。
喜ばしく、どこか創造的だった。
むなしさとは、実は毛嫌いするようなものではなかった。
自らの心が発するメッセージだった。
「そろそろこの不毛なチャレンジをやめてはどうか」と、僕たちに教えてくれているのだ。
その声をただ聴くだけでよかったのだ。
むなしさを脱しようともがくことが新たなむなしさを生み、
むなしさをそのままにしておくことで、そこから真の創造が起こる。
僕はあっけにとられた。
しかし、ほどなくして僕は思い出した。
そうだった。
ここは逆説の世界だった。
だから僕は、今日も坐る。
むなしさをむなしさのままにして。