本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

空虚な詩① むなしさは創造の母

 

空虚な詩を僕は歌う。

 

もしかするとあなたは、聴くに堪えないかもしれない。

 

申し訳ない。

 

それでも僕は、この詩をやめることはできない。

 

前向きであろうとすること。

 

そのことを、本心では窮屈に感じている人。

 

にもかかわらず、そう感じることに対して罪悪感を抱いている人。

 

本当は疑問を感じつつも、強迫感から前向きであろうと努力している人。

 

そんな人の何かに響くものがあるならば、僕はそれでじゅうぶんだ。

 

僕たちは、前向きでなくても生きていける。

 

前向きも後ろ向きもなくなったとき、僕たちは、おのずと自分に適した方向に進み出す。

 

あなたがそのことを理解するきっかけになればこれ幸い。

 

むなしいということ。

 

現代社会では、きっとそれは嫌悪されていることだろう。

 

「むなしいことは不幸なこと」

 

そのように信じられているのかもしれない。

 

だから、僕たちはむなしさを埋めようとする。

 

むやみな行動によって。

 

もちろん僕もそうしてきた。

 

しかし、その行動の結末は、やはりむなしさだった。

 

だから、また代わりとなる行動によってそれを満たそうとする。

 

その繰り返し。

 

そうしたことを続けてきて、あるとき僕は思い始めた。

 

むなしさを埋めるための行動は、結局は新たなむなしさを生むだけなのではないのか。

 

むなしさとは、本当に忌み嫌われるようなものなのか。

 

むなしさをそのままにしておいたらどうなるだろう。

 

むなしさを変えようとせず、

 

消そうとせず、

 

追い出そうとせず、

 

自分の心に居させてあげたらどうなるのだろう。

 

そこで僕は実験してみた。

 

むなしさに抵抗せず、ただそれとともにあり続けた。

 

たとえ気持ち悪くても、忍耐づよく。

 

はたから見ると、ただの覇気のない中年男性かもしれない。

 

それでもかまわなかった。

 

もうそれ以上、むなしさを上塗りするような行いをしたくなかったから。

 

ただむなしいまま坐り、横たわった。

 

坐るのにも疲れたら、今無理なくできることだけをやった。

 

包丁を研いだり、庭の草木に水をあげたりした。

 

すると、野心という名の思考が誘惑してくる。

 

「もっと俺の才能を活かせるものを探そう」

 

「俺は本来活躍をして、注目されるべき人間だ」

 

「奉仕活動をすればヒーローになれる」と。

 

しかし僕は、それが思考の罠であることを理解している。

 

もうその手に乗らない僕は、その誘惑に応じず、また逆らいもしなかった。

 

引き続き、むなしさに浸る。

 

そして坐り、横たわる。

 

すると、それはじわじわと起きてきた。

 

何だろうこれは。

 

心に引っ掛かりがなく軽快だ。

 

しかし、ひたすらに穏やかだ。

 

ムラムラとするような、あの攻撃的な高揚感はない。

 

むなしさという空間から、泉のように湧いてくる。

 

それは思考を超えていた。

 

喜ばしく、どこか創造的だった。

 

むなしさとは、実は毛嫌いするようなものではなかった。

 

自らの心が発するメッセージだった。

 

「そろそろこの不毛なチャレンジをやめてはどうか」と、僕たちに教えてくれているのだ。

 

その声をただ聴くだけでよかったのだ。

 

むなしさを脱しようともがくことが新たなむなしさを生み、

 

むなしさをそのままにしておくことで、そこから真の創造が起こる。

 

僕はあっけにとられた。

 

しかし、ほどなくして僕は思い出した。

 

そうだった。

 

ここは逆説の世界だった。

 

だから僕は、今日も坐る。

 

むなしさをむなしさのままにして。