私は自分の心を奮い立たせない。
いかなるときも。
私の心はしばしば、恐怖にまみれている。
特に何もなくても。
それでも私は、奮い立たせない。
自分の心を鼓舞したりはしない。
恐怖を払いのけようともしない。
ただ恐怖のなかにある。
それは本当に恐ろしいこと。
不安で不安でたまらない。
手も足も出ないときもある。
恐怖に明確な理由などないときもある。
いや、ほとんどがそうであるかもしれない。
それでも私は、奮い立たせない。
ただ恐怖のなかにあるということに気づいている。
そして恐怖のなかにありながら、ただそこにとどまる。
まるで何が起こるかわからない暗闇のなかを、震えながらうずくまっているかのように。
すると、私の気分などおかまいなしに、私たちの暮らしは流れていく。
いつのまにか日暮れの時間が近づいていることに気づく。
生きるためには、最低限度やることがある。
だが恐怖で動きたくない。
それでも私は、奮い立たせない。
どうしてもやることがあるときは、いやいやながらも恐る恐る行為する。
まるでほふく前進をするように、一歩一歩。
恐怖を存分に味わいながら。
一つひとつの行為に時間がかかるので、へとへとに疲れ切る。
それでも私は、奮い立たせない。
そして、多くを求めない。
難なくできる人とも比べない。
というより、求める気も比べる気も起こらない。
求めても比べても、何の足しにもならないということを、
これまでの人生で完全に理解しているから。
もちろん自分自身の非力を嘆いてもいいのだが・・・
そのような気も起こらない。
嘆いたところで、今自分にできることしかできないのだから。
だから私は、奮い立たせない。
今の私にできることだけを行う。
なぜそうまでして奮い立たせないのか。
それは、奮い立たせるということが、自らとの戦いであることを熟知しているから。
すると思考は、私に尋ねる。
自らとの戦いは、そんなにいけないことなのか、と。
もちろんそんなことはない。
究極的には私たちの行うことに、いけないことなどないのかもしれない。
自らとの戦いにもまた、得られるものはあるのかもしれない。
その戦いに勝つことで、一時的には何かを掴み取るかもしれない。
だから戦いたいなら、存分に戦うといいだろう。
しかし私は、それを望まない。
自らとの戦いもまた、戦いの域を出ない。
戦いである以上、
相手が他者であれ、自分であれ、
結果が勝利であれ、敗北であれ、引き分けであれ、
結局は自分や周囲を害する。
人生を全体として観るならば・・・
どんなに美しく感じられる大義名分があったとしても、
戦いというものは総じて自他にマイナスをもたらす。
そして自分が戦いを降りないかぎり、
戦いは続く。
それが戦いの本質。
だから私は、奮い立たせない。
様々な局面で奮い立たせないとき、私たちは気づく。
私たちにとって本当に必要なことは、奮い立たせなくても遂行できるのだということを。
むしろ奮い立たせないことで、私たちは調和的にものごとをとり行えるのだということを。
そして、奮い立たせずに行うことで、本当に不要になった恐怖は、おのずと消えていくのだということを。
だから私は、奮い立たせない。
今日も明日も、奮い立たせない。
そして私は坐る。
誰も、何も奮い立たせずに。