本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

全体のなかの一個人であるということ

 

個人は全体に影響を与える

 

あなたは、全体のなかの一人。

 

あなたがやることは、大なり小なり、全体に影響を与える。

 

あなたがやることは、必ず何らかの形で、誰かに何かをもたらしている。

 

だから私たちは、役立たずなどでは決してない。

 

たとえ私たちのやることが、まるで人の役に立っているようには見えなくても、

 

たとえ私たちが、周りに迷惑をかけているように見えても、

 

私たちは、役立たずなどでは決してない。

 

個人ができることにはかぎりがある

 

とはいえ、私たちはみんなと同じ、一個人にすぎない。

 

当然、みんなと同じで、その存在は尊い

 

卑下するようなことは、本来、何一つない。

 

しかし、私一人にできることにはかぎりがある。

 

残念ながら、個人である以上、私にできることは、自分の守備範囲のことだけだ。

 

私一人ができることは、全体にとってはたかが知れている。

 

だから尊大になることも、何一つない。

 

大きなことはやらなくてもいい

 

これは何も、だからみんなで力を合わせて大きなことを成し遂げましょうということではない。

 

もちろん、心からそうしたいのなら、そうしてもいいが、

 

やりたいと感じないのなら、そのようなことは、やらなくてもいい。

 

たしかに大きなことを成し遂げることは、偉大なことだろう。

 

何より、成果として外形的にわかりやすい。

 

だが、それだけがすばらしいことではない。

 

たとえ一人であったとしても、自らの領分を理解し、自分に負えることだけを、自分なりに行うこと。

 

それもまた、すばらしいこと。

 

結果は伴わなくてもいい。

 

ただやること。

 

それが尊いこと。

 

どのように役に立つかは誰にもわからない

 

何をやるかとか、

 

どんな規模のことをやるかとか、

 

そんなことが気になるかもしれない。

 

とてもよくわかるし、気にしてもいい。

 

しかし・・・

 

全体とは、無限の広がり。

 

そして全体のなかの個々の関係も、大変に入り組んでいる。

 

私たち一人ひとりがやることが、全体にどのように・どのくらい役に立つのか、

 

私たちが考えたところで、わからないだろう。

 

だから、貢献に大小や優劣をつけること自体、ナンセンスなのかもしれない。

 

些細に見える日常のことをやるだけで、じゅうぶん貢献。

 

趣味や遊びと呼ばれるものであっても、やればそれで貢献。

 

対価として賃金が発生しなくても、それでもやはり貢献。

 

ただやること、それが貢献。

 

私たちの領分でないならば、

 

そして、やりたくないならば、

 

目を惹くこと・派手なことなど、やらなくていい。

 

もちろん領分でなくても、やりたければやればいいが。

 

全体のなかの一個人であるということ

 

自分のことを、ことさらに貶めることもなければ、

 

ことさらに美化することもない。

 

自分の力を出し惜しみをすることもなければ、

 

背伸びをして、やりたくもない挑戦をすることもない。

 

今の自分のまま、今できることだけをやればいい。

 

今は何もできないなら、何もやらなくていい。

 

このことを理解し、

 

一人でやるか・誰かと共同でやるかにかかわらず、

 

自分にできることだけを、粛々と行うこと。

 

自分のできないことや、自分の守備範囲外のことは、流れにゆだねること。

 

これが、全体のなかの一個人であるということ。

 

偉大さはみんな同じ

 

私たちの存在には本来、特別な意味づけは要らないのかもしれない。

 

私たちは人間である以上、有限の肉体を介して生きざるをえないし、有限の精神からも影響を受ける。

 

だから、能力としては・・・

 

自覚のある・なしにかかわらず、

 

私たちにはそれぞれに、絶対的に得意なこと・苦手なことがあるだろう。

 

それはみんなお互い様。

 

だが、存在としては・・・

 

私たちはみんな、

 

他より劣ったものでもなければ、

 

周囲より優れたものでもなく、

 

みんなと同じ、ただの一個人ではないだろうか。

 

少なくとも私は、そのように感じている。

 

だから私は、ただゆだねて坐る。

 

自分にできること、

 

自分の守備範囲のことだけを、

 

自分なりに真摯に行う。

 

気持ちを込めず、黙々と。

 

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