瞑想とは、自分の存在を磨く作業でもあります。
存在を磨くとは、自分の存在をアピールすることとは違います。
自分の存在そのものの価値に気づくということです。
存在そのものの価値。
それは何かができるから、何かを成し遂げたから、何かを所有しているから自分に価値を感じるというような、条件つきのものではありません。
自分のことが好きだとか、そういったことでもありません。
存在に感じる価値は、好き嫌いなどの思考による評価を超越しているのです。
存在そのものの価値とは、「私は確かにここに存在している」という信頼感です。
そしてそれは、誰かと比べてどうかというような相対的なものではありません。
数値で測れるようなものでもありません。
なんとなく、そして絶対的に感じるものです。
存在に価値を感じるとき、僕たちは言葉による自己主張は不要になります。
なぜなら、言葉によって誰かにアピールしなくても、自分の存在を信じられるからです。
真の自信はそこから生まれることでしょう。
もちろん、自己主張そのものが悪いとは言いません。
ときには自己主張も、他者とのコミュニケーションを楽しむ道具となってくれるでしょう。
たとえばカフェで友人と、自分はこれが好きだとか、こんなときうれしいのだと語らうことはきっと豊かな時間でしょう。
存分に味わうといいと思います。
しかし、自己主張が誰かに何かをわからせようという意図を強く帯びたとき。
自分の主義などをむやみに主張するとき。
論争や弁解に多大な労力を費やすとき。
僕たちは気づくのがいいでしょう。
自分の内面に、まだ満たされないと感じている何かがあるのだということを。
それに気づき続けることもまた、存在を磨く作業の一つでもあるのです。
ポイントは、ただ気づくだけでいいということです。
咎める必要もなければ、変えようとする必要もありません。
また、満たされないものを満たそうとしなくても大丈夫です。
満たされないものがあるということにあなたが気づいてあげるだけで、あなたの心は少しずつ癒され、おのずと満たされていくことでしょう。
そして、そのたびにあなたの存在は輝きを増すことでしょう。
あなたの存在が輝くとき、あなたは無理に行動しなくてもいいのだと理解しはじめることでしょう。
あなたが存在していること、それ自体が周囲への貢献であることに気づくでしょう。
さあ、複雑な知識は脇に置き、ただ自分の身体に意識を置いてみましょう。
それを何度も何度も、忍耐強く繰り返しましょう。
その結果、存在は磨かれていくのです。
存在を磨く作業は、突き詰めればきわめてシンプルなものなのです。