心を落ち着けようとしない
心が落ち着かないとき、あなたは心を落ち着けようとするかもしれません。
もちろんそれは現在、いわゆる一般的と言われている方法かと思いますので、当然の試みだと思います。
あなたは何も間違ってはいません。
そして、瞑想にもその役割を期待しているかもしれません。
きっと瞑想関連の情報などのなかには、実際に「心を落ち着ける」ように指導するものもあるかもしれません。
しかし、どうでしょうか。
その方法はうまくいったでしょうか。
きっと、そうではなかったのではないかと思います。
心が落ち着かないとき、瞑想では自分の心とどのように関わるのか。
これについて、僕は根本から違ったアプローチをお伝えしたいと思います。
語弊を恐れず言うなら、落ち着かない心をそのままにしておくということです。
落ち着かない心を落ち着けようとしないこと。
それが、瞑想において僕が推奨する態度です。
厳密に言うなら、心が落ち着かないという状態を許容することです。
「しかし、それならいつまで経っても心は落ち着かないじゃないか」
「そんなこと、許容できるはずがないだろう」
あなたはそう主張するかもしれません。
なるほど。
あなたは本当に正義感が強いですね。
その懸念、よくわかります。
ですがそれは、心というものを、机の上にあるボールペンなどと同じような「モノ」として考えているのかもしれません。
動かそうとすれば動かせるし、動かそうとしないと動かない。
残念ながら、心とはそのようなものではないのです。
心とは、命を持った生き物だと僕は思っています。
もし気が進むなら、少し思い返してみましょう。
これまではどうだったでしょうか。
あなたが心を落ち着けようとすればするほど、心は落ち着くまいと反抗したのではないでしょうか。
心を動かそうとしたり、止めようとしたり、変えようとすればするほど、心はそうはならなかったのではないでしょうか。
自分のものでも他人のものでも、心を思い通りにしようとすることは、苦しみの源です。
思い通りにならないものを思い通りにしようとすること。
これこそブッダが説いた「苦」です。
ならばもう、思い通りにしようとすることを、あきらめてはどうでしょうか。
いっそ、心を落ち着けようとすることさえ、放棄してしまってはどうでしょうか。
ただ坐って、または横たわって、動き回る心への抵抗をやめてしまってはどうでしょうか。
そのとき起こる不快さも、ただそのまま感じてみてはいかがでしょうか。
そうすることで、あなたは気づくかもしれません。
心を落ち着けようとしないことで、心は自然に落ち着いていくのだということを。
だからそれまでは、待っていてあげればいいのだということを。
そしてそれは、他者との関わり方と同じなのだということを。
心を落ち着けようとすることは、実は落ち着かない心へのとらわれだったのです。
そうです。
この世界は逆説的なのです。