「瞑想で無になる」
「瞑想で雑念が消える」
そのようなお触書を目にされた方はいらっしゃるかもしれません。
そして、そのような神秘的な状態に憧れるかもしれません。
人それぞれ何を目指すかは自由ですから、もちろんそれもいいと思います。
しかし、突き放したような言い方で申し訳ないのですが、その期待はおそらく大抵は外れることになるでしょう。
たしかに僕もときおり、頭がすっきりして余計な考えが湧かず、「無になった」かのように感じることもあります。
それは非常に心地のいいものです。
ですがそれは、結果的にそうだったというだけで、求めるようなものではないし、ましてや瞑想の本質的な部分ではないと僕は思っています。
瞑想で大切なことは、考えが起こるかどうかではない。
僕はそう思っています。
それはきっと、僕たちのコントロールを超えています。
瞑想が熟練していようと、考えは起こるときに勝手に起こるのではないでしょうか。
考えが起こったとしても、それを押し殺すことなく受け流すこと。
そして、それと距離を取ること。
そのような注意の向け方を鍛錬することが、瞑想において重要なのではないでしょうか。
この鍛錬により、僕たちは自分の心を客観視できるようになるのです。
(もちろん、失敗するときもしょっちゅうあります。)
そして、忍耐強く自分の心を観察し続けることによって、洞察や自己理解が深まるのです。
ひいてはこれが、僕たちの意識の変容につながるのです。
この意識の変容は、僕たちの生き方や世界との関わり方を大きく変える可能性も秘めています。
これこそが、僕が瞑想に感じる真価なのです。