私には、何も・誰も救う力などありません。
どうぞ買いかぶらないようにお願いしたいのです。
そもそも本当の意味において、誰かが誰かを救うことなどできるのでしょうか。
救済とは、自らが気づくことでしか起こらないのではないでしょうか。
あるがままの自分を理解したとき、
そして、自分に起こることを自分が負うと覚悟したときに、
自分自身の内に、真の救済が起こるのではないでしょうか。
真の救済とは、誰かが他者のためにできることではないのではないでしょうか。
だから他者に救済を求めるというのは、本来無理なことを他者に要求しているということではないでしょうか。
私自身が醜く愚かな心であるのに、
私自身が自分のことも理解できていないのに、
私自身が自らに起こることを自分で負いきれないというのに、
なぜ私に他者を救うことができるでしょうか。
だから私は、誰も救いません。
救うという言葉を使うこと自体、私はおこがましいと感じます。
「私は救う」
このように宣言したとき、私たちに何か得意げな気持ちがムラムラと湧いてきてはいないでしょうか。
そう。
救うという言葉は大なり小なり、救われる対象を下に見ているのではないでしょうか。
少なくとも私は、この言葉を多用する思考からは、その意図を感じます。
きっと今苦境にある人は、私などが手を下そうとしなくても、適切な時期に自らを救済するでしょう。
だから私には、誰かを救うためにできることなど何もないのです。
もし私にとてつもない理解力があり、
あるがままの自分を完璧に理解していたとして、
また、自らに起こることを完全に受け入れていたとしても、
私は誰も救おうとはしません。
なぜなら、「救おう」と努力した時点で、
それは救済ゲームと化すからです。
そのゲームにのめり込んだとき、
そして誰かを救済できなかったとき、
きっと私たちは、誰かを救済できなかった自分や他者を責めることとなるでしょう。
それは地獄です。
もうそういったゲームにも加担する気はないので、
私は誰も救いません。
だから私は、今日も坐ります。
誰も救おうとせずに。
そして坐ることで、私は少しだけ自己理解を深めるのです。
そのとき私の存在は、取り立てて人の役には立ちませんが、人畜無害です。
どうやらそれにより私の存在は、多少は他者の癒しになっているようです。
まあそれでじゅうぶんなのではないでしょうか。
p.s.
これは精神的な救済のことを述べたものです。
もちろん今目の前に、実際に倒れている人や転んで痛がっている人など、
物理的に苦しんでいることが明白な人がいるなら、
自分にできることで、できるかぎりの応援はするでしょう。
それでもやはり、「救う」という言葉は使いたくはありません。