本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

嫌いなものを嫌いと認めることも愛

このような経験をお持ちの方はいないでしょうか。

何かを嫌いになってはいけないと考え、ことさらにその対象を好きなのだと自分に言い聞かせようとする。

もしくは好きなふりをする。

ほんとうはそれが嫌いなのに。



巷にあふれる読み物には美辞麗句があふれているかと思います。

だから、それを真に受けてしまうかもしれません。


愛にあふれる人というのは、何にでも好意的に接することができるのだと解釈するかもしれません。

それで、あなたも「人を嫌ってはいけないのだ。」という想いを強化したのかもしれません。



僕は好意と愛は別物だと思っています。

好意は感情です。

愛は態度です。

好意のあるなしと愛とは、まったく関係ないとまでは言いませんが、必ずしもリンクするとは限らないのではないでしょうか。


愛とは、ものごとのあるがままを認めようとする態度ではないでしょうか。

ならば、嫌いなものに対して好意があるふりをするのは、むしろ愛とは遠い態度だと思います。

それは自分の嫌悪感をあるがままに認めていないことと同じではないでしょうか。

つまり、自分を偽っているのではないでしょうか。


もちろん好意が持てるなら、あるに越したことはないでしょう。

しかし、感情は持とうと思って無理に持てるものではないと僕は思っています。

今の段階で好意がないのなら、自分はこれが嫌いなのだ。と認めてもいいのではないでしょうか。

もちろん、わざわざ嫌いであることを表明しなくてもいいと思いますし、態度に表す必要もないでしょう。



嫌いであるという感情を抑圧せず、その存在をあるがままに認めること。

しかし、その感情にむやみに同調せず、相手にもその感情をぶつけないこと。

それが本当に愛のある態度なのだと僕は思います。

正常分布

僕は人混みがとても苦手です。

人が密集した場所からは早く離れたいと感じます。

満員電車に揺られて毎日通勤するような生活は、僕には耐えられないでしょう。

人間らしい自然な状態とは到底思えないのです。

しかし、これは僕の感じ方です。

満員電車に揺られながらでも、今の仕事は自分にとって好ましいからと満足して続けている人もいるでしょう。

都会のほうが住むに便利で、それに比べれば混雑は問題ではないという人もいるでしょう。

電車内で入り口付近が混雑し、通路が空いている場合、僕はできるかぎり通路に入ろうとします。

しかし、混雑した入り口付近を選ぶ人も大勢いるのです。

わざわざ人の波を縫って通路に入るのが面倒くさいから、そこに留まるほうがまだましなのかもしれません。

目的の駅に着いたときに少しでも早く電車から出たいのかもしれません。

いや、もしかしたら、混雑に身を置くことが心から好きな人だっているかもしれません。

だから、これは持論ですが、僕はみんな自分の感じ方に合った環境に身を置いていいのではないかと思うのです。

朝のラッシュに耐えて、都市部で働くだけがすべてではないでしょう。

山間部でスローライフをするだけがすべてではないでしょう。

幸い、日本には都市部もあれば、農山村や漁村もあります。

みんながみんな、都会を目指したいわけじゃない。

みんながみんな、田舎暮らしが好きなわけじゃない。

どちらが良い・悪いではなく、どこが自分にとって心地よいかということではないでしょうか。

自分の感じ方によって住む場所を選ぶことでこそ、人間の「正常分布」が進むのではないかと思うのです。

もちろん、住む場所を変えるということは、人生においてとても大きな変化と感じる人が多いでしょう。

お金がかかるかもしれないし、人間関係や仕事にも影響があるかもしれません。

だから、誰にでも勧められることではありません。

しかし、今いる場所が自分には合っていないのに、何かよくわからない罪悪感のようなもので「ここにいなくてはならない。」と考えてとどまっているくらいなら、旅に出てみてもいいのではないでしょうか。

イワナはフナが好むような栄養の多い水辺では生きられません。

みんながみんなフナではないのです。

そして、イワナはフナではありません。

現代社会では、みんながフナのようにタフであるべきだと思っているように感じます。

もしあなたがイワナだと自覚したのなら、フナのように生きられないことに罪悪感を感じる必要があるでしょうか。

フナと同じ河でフナと同じように泳ごうとする必要があるでしょうか。

寿命を縮めてまでその泥が多い河で泳ぎ続ける必要があるでしょうか。

イワナにとって生きやすい河で泳げばいいのではないでしょうか。

今こそ「忍耐するとき」

あなたに目標があって、

 

あなたがそれを成し遂げようと決心したのなら、

 

僕はあなたに「忍耐すること」をおすすめします。

 

 

 

どんなものごとにも成就するために必要な時間があります。

 

また、ものごとが移り変わるには、段階というものもあるでしょう。

 

そして、その長さや段階はものごとによって異なります。

 

 

 

気の遠くなるような年月を経て、大地から水晶が形成されるように。

 

さなぎが蝶になるように。

 

 

 

巷にあふれる自己啓発本や生き方指南書は、プロセスをすっ飛ばして理想的なゴールの姿だけを示したものが大半でしょう。

 

だから、生真面目な人は、今その姿ではない自分を責めてしまうかもしれません。

 

しかし、そんな必要はないのです。

 

あなたがそこに到達するには、それにふさわしい時間が必要だからです。

 

 

 

 

また、ゴールの姿が良くて、今の自分が悪いと思うかもしれません。

 

だから今の自分を否定してしまいたくなるかもしれません。

 

 

 

 

ゴールはゴールです。

 

今の自分は今の自分です。

 

自分がどちらの状態が好きかとか、自分にはどちらの状態が心地いいかというような違いはあるかもしれません。

 

しかし、真の意味でゴールと今の自分に優劣はないはずです。

 

そこには違いしかないのです。

 

ゴールが良くて、今の自分が悪いと決めつけるのは、多少短絡的な思考ではないでしょうか。

 

 

 

もちろん、だから我慢して今のままで居続けなさいなんて言うつもりは毛頭ありません。

 

あなたがそこをゴールに設定するのは、そこがまぶしく見えるからでしょう。

 

だから、おおいにゴールを目指して進めばいいと思います。

 

 

 

あなたがどちらを選びたいか。

 

それだけの問題なのです。

 

だから、今のあなたまで否定する必要はどこにもないのです。

 

今のあなたを否定しなくても、ゴールは逃げてはいきません。

 

 

 

まだあなたの決心ははじまったばかりです。

 

今こそ「忍耐するとき」なのではないでしょうか。

 

 

 

「表現したい欲求」に対するブレーキ

僕は自分のなかにある「表現したい欲求」を長い間押し殺していたことに気がついた。

そして、その欲求と和解した。

すると今度は、僕にその欲求を押し殺させていた強い思い込みが表面化してきた。


「自分は無力である。」という思い込み

僕の心の根底には「自分は無力である。」という思い込みがあるのだろう。

この思い込みがいつはじまったのかはわからないし、今となってはそんなことを知る必要もないだろう。

この思い込みは払拭されないまま現在に至っている。



それはなぜだろうか。



僕はずっと、自分自身であることを否定して、別人になる努力をし続けてきた。

現代社会が求める「あるべき姿」に迎合するためだ。

自分自身の感じ方や考え方が「世間一般の価値観」と違っていたため、ずっと自分の感じ方や考え方を否定してきた。



そのように別人になる努力をしても、やはり世間が求めることを、求められるようにできているという感覚がなかった。

自分の能力が活かせていると感じることができなかった。



だから、「そのままの自分でいてもいい。」という気づきが、体感としてまだ定着していないのだろう。

今は、「本当にそのままの自分でいても大丈夫だろうか。」と不安なのだ。


「責任を負いたくない」という恐れ

この不安は、「責任を負いたくない」という恐れを生み出している。

現代社会においての「責任」という言葉は、僕にとっては脅迫である。



「失敗したら許さんぞ。」

「迷惑をかける人間は悪だ。」

「人を待たせてはいけない。」

「必ず我々が求める結果を出せ。」

「一度着手したことは投げ出すな。」



なんだか命令や禁止ばかりされているように感じるのだ。



「自分は無力である。」という思い込みがあれば、当然「そんなこと自分にできるはずがない。」という思いが沸いてくる。

「責任」という言葉はますます重苦しく窮屈なものと感じられるようになる。

そして行動することに委縮したり、行動することがおっくうになってしまうのだ。



つまり「自分は無力である。」という思い込みは、「表現したい欲求」に対するブレーキになっていたのだ。


「表現したい欲求」が作り出す焦り

当然のことながら、「自分は無力である。」という思い込みは不快である。

できるならそんな思い込みは早く手放してしまいたい。

「表現したい欲求」は長年、僕の心の奥深くにしまい込まれていた。

だから、この欲求には「このまま何もしなければ、また『自分は無力である。』という思い込みに支配されてしまうのではないか。」という不安がつきまとっているのだ。

その不安が、「早く何かをなさなくては。」という今の焦りにつながっているのだ。


思い込みや焦りを真に受けて同調しないこと

しかし、僕の態度ははっきりしていた。



これまでのように、「自分は無力である。」という思い込みを真に受けるつもりはない。

「無力ではないと思える自分になる」ために、がむしゃらに努力することはごめんだった。



また、「表現したい欲求」が作り出す焦りにも同調しない。

いくら自分が表現したいことのためであったとしても、自分のペースを貫く。

たとえ自分にとって望ましいことであっても、焦りに同調した行動は「達成ゲーム」に化けやすい。

そのことをこれまでの人生で嫌というほど味わったからだ。



今は苦しくてもいい。

少しずつでいい。

これからは「そのままの自分」を信じて、自分のスピードで生きていくのだ。



そのために今僕がする努力は、「無力である。」と感じる自分であっても、そのまま日々を過ごすことだ。



「早くしないと手遅れになるぞ。」という強迫が心に沸いても、それらを起こるまま・去るがままにすることである。



つまらない挑発に乗らないことだ。

もうこれ以上、別人になる努力はしない。

現代社会が煽り立てる「達成ゲーム」から僕は完全に降りたのだ。



これからは「そのままの自分」で、自分のスピードで、自分が信じることのために行動するのだ。



そのうちに思い込みや焦りが作り出す幻想の恐怖は消えていくだろう。

焦りよ、君の正体は?

ここ最近、僕の心に「焦り」が頻繁に沸いてきている。

こっちを向いてくれ、俺の言うとおりに動いてくれと僕を動かそうと必死だ。

彼の正体は、何だろうか。



それは、僕がずっと心の奥に押し込めてきた「表現したい欲求」だった。

「表現」といっても、何も文章を書いたり、絵を描いたりなどの創作活動だけを指しているわけではない。

もっと広い意味での「表現」だ。



それは、自分が価値を感じることのために、現在持っている能力を活かすことだ。

何も世間的に「すごい」といわれるような、大層なこととは限らない。

それは刃物職人にとっては、黙々と刃物を打ち、刃を研ぎ続けることかもしれない。

きれい好きな人であれば、自分の部屋を美しく保ち続けることかもしれない。

家事に喜びを見いだしている人であれば、日々の雑事を行うことかもしれない。
(雑事という表現すら失礼かもしれない。)

その「表現」の仕方は、人によって様々だろう。



長年、僕は社会の「あるべき姿」に合わせようと必死だった。

そうしないと生きていけないと思い込んでいたからだ。

そして、自分は取り立てて何もできないと信じ込んでいた。

だから「サラリーマンにしかなれない。」とサラリーマンになった。

しかし、なじめなかった。

これではいけないともがき続けた。

どんなに努力しても、どこか噛み合わないかんじがあった。

常にどこか、自分に嘘を付いているような違和感があった。

同僚との価値観も当然、合わなかった。

どうしても出世をしたいと思えないし、組織内の政治的な話も常にひとごとのようだった。

批判されるのが怖くて、出世や仕事に興味があるふりをしていた。

そして、そんな自分をずっと責め続けていた。

だから、社会人になって以降、「表現」しているという実感がまるで沸かなかった。

社会人としてやっていくうえで、自分を「表現したい」という欲求はじゃまでしかないと思っていたので、それをずっと押し殺していた。

押し殺していた期間が長すぎて、押し殺しているということすら忘れていた。



しかし、ようやく自分の「本質」はサラリーマンに向いていないということを、あるがままに受け入れられるようになってきた。

社会が求める「あるべき姿」という洗脳から脱しつつあるのだ。

すると、これまで押し殺してきた「表現したい」欲求が心の奥から顔を出してきたのだ。



よく、生きていてくれた。

長い間、暗くてせまいところに押し込めていてごめんよ。

長い間、無視しつづけていてごめんよ。

これからは僕といっしょに行こう。



僕はこの「表現したい欲求」と和解した。

そして彼が僕の心に存在することを認めた。

しかし、まだこの欲求は、強い恐れを伴っていた。

(続く)

半年ブログをやって気づいたこと

はてなブログから通知が届いた。

どうやらブログを開設して半年になるらしい。

そうか、もうそんなになるか。

そして、まだ半年しかたっていないのか。

半年間、僕はこのブログで自分が好きなことをつらつらと書いてきた。

「なるべく他を傷つけない。」
「なるべくわかりやすい文章にしたい。」
「なるべく自分が納得する文章を公開したい。」

これ以外に書くうえで気をつけていることは特にない。

ただ自分が思いついたことを書いているだけ。

ただ自分が言いたいことを書いているだけ。

当然、うまく書けたと思えた日もあれば、そうでない日もある。

特にアクセス数を増やすための工夫もしていない。

こんな「自分本位」なブログでも、来て、読んでくださっている人がいる。

ほんとうにありがたい話だ。

半年間マイペースに書き続けてきて、気がついた。

どうやら今の僕は、「自分が楽しむ」こと以外に、このブログに目的を持っていないようだ。

そして自分が楽しむ延長線上に、誰かがこの文章で何かを感じてくれたらいいかなと思っているようだ。

多くの方に読んでもらいたいとか、アクセス数を増やしたいとか、そういう欲はほんとうにないようだ。

そして、僕にはそういう姿勢が合っているのかもしれない。

誰もが人気ブロガーを目指しているというわけではないと思うので(笑)

こんなブログでも読んでくださっている方、ほんとうにありがとうございます。

いくらアクセス数にこだわっていないつもりでも、やはり読んでくれる人がいるといないとでぜんぜんモチベーションは違います。

あなたのおかげで続けられています。

今後も僕のペースでぼちぼちやっていきますので、よければお付き合いくださいませ。

そのままにしておくことも愛

現代社会的価値観では、現状を改善しようとすることが過剰によしとされている傾向にあると思います。

これを盲信すると、むやみやたらに周囲を思い通りにしようとして、いたずらに疲弊してしまいかねません。

また、周囲との軋轢も産むかもしれません。

もちろん現状を改善しようとすること自体が不要だとは思いません。

むしろ大切だと思っています。

しかし、現状を認識しないまま、むやみに変えようとすることは、自分も周囲も苦しめることになるかもしれません。

つまり、十分な現状認識が必要だと思うのです。

「十分な」とはどれぐらいでしょうか。

私は、それに正解はないと思っています。

あなたが不自然だと感じないタイミングです。

焦燥感や恐怖を押し殺して、無理矢理判断する段階ならば、まだ不自然かもしれません。

十分に現状を認識するまでは、ものごとを判断せず、そのままにしておこうとする姿勢。

むやみに行動することに慣れてきた私たちにとって、それは非常に忍耐がいることかもしれません。

しかし、このめまぐるしい現代において、こうした姿勢が有効なケースもあるのではないでしょうか。

自分の思い通りにしようとしないこと。

そして、そのままにしておこうとすること。

それは実は、ものごとのあるがままを認めようとする愛ある態度なのだと私は思っています。