焦りよ、君の正体は?
ここ最近、僕の心に「焦り」が頻繁に沸いてきている。
こっちを向いてくれ、俺の言うとおりに動いてくれと僕を動かそうと必死だ。
彼の正体は、何だろうか。
それは、僕がずっと心の奥に押し込めてきた「表現したい欲求」だった。
「表現」といっても、何も文章を書いたり、絵を描いたりなどの創作活動だけを指しているわけではない。
もっと広い意味での「表現」だ。
それは、自分が価値を感じることのために、現在持っている能力を活かすことだ。
何も世間的に「すごい」といわれるような、大層なこととは限らない。
それは刃物職人にとっては、黙々と刃物を打ち、刃を研ぎ続けることかもしれない。
きれい好きな人であれば、自分の部屋を美しく保ち続けることかもしれない。
家事に喜びを見いだしている人であれば、日々の雑事を行うことかもしれない。
(雑事という表現すら失礼かもしれない。)
その「表現」の仕方は、人によって様々だろう。
長年、僕は社会の「あるべき姿」に合わせようと必死だった。
そうしないと生きていけないと思い込んでいたからだ。
そして、自分は取り立てて何もできないと信じ込んでいた。
だから「サラリーマンにしかなれない。」とサラリーマンになった。
しかし、なじめなかった。
これではいけないともがき続けた。
どんなに努力しても、どこか噛み合わないかんじがあった。
常にどこか、自分に嘘を付いているような違和感があった。
同僚との価値観も当然、合わなかった。
どうしても出世をしたいと思えないし、組織内の政治的な話も常にひとごとのようだった。
批判されるのが怖くて、出世や仕事に興味があるふりをしていた。
そして、そんな自分をずっと責め続けていた。
だから、社会人になって以降、「表現」しているという実感がまるで沸かなかった。
社会人としてやっていくうえで、自分を「表現したい」という欲求はじゃまでしかないと思っていたので、それをずっと押し殺していた。
押し殺していた期間が長すぎて、押し殺しているということすら忘れていた。
しかし、ようやく自分の「本質」はサラリーマンに向いていないということを、あるがままに受け入れられるようになってきた。
社会が求める「あるべき姿」という洗脳から脱しつつあるのだ。
すると、これまで押し殺してきた「表現したい」欲求が心の奥から顔を出してきたのだ。
よく、生きていてくれた。
長い間、暗くてせまいところに押し込めていてごめんよ。
長い間、無視しつづけていてごめんよ。
これからは僕といっしょに行こう。
僕はこの「表現したい欲求」と和解した。
そして彼が僕の心に存在することを認めた。
しかし、まだこの欲求は、強い恐れを伴っていた。
(続く)