本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

空虚な詩⑦ 利他であろうとしない

空虚な詩は、ここまでとしよう。

 

あなたはこの詩をわかろうとしなくていい。

 

僕は誰かに模範を示しているわけではない。

 

模倣するように求めているわけでもない。

 

できるかぎり、ありのままのあなたをごまかさずに観てくれたなら、僕はうれしい。

 

ただそれだけ。

 

 

利他であろうとする苦しみ

 

人のために生きる。

 

現代ではこれが、美しいことであると考えられているのかもしれない。

 

僕もまた、そう信じてきた。

 

そして、人の役に立たなければならないと思い、他者にじゅうぶんに貢献できていないと感じる自分を裁いてきた。

 

それは地獄だった。

 

利他的行為が義務と化し、生きることにまるで喜びを感じられなかった。

 

だから僕は、そうした貢献ゲームにも疲れ、誰かのために生きることをやめた。

 

僕は国家のために生きない。

 

社会のためにも生きない。

 

在籍する組織のためにも生きない。

 

人のためにも生きない。

 

誰のためにも生きない。

 

このように言うと、思考は眉をひそめるかもしれない。

 

「なんて利己的なんだ」と。

 

誤解のないようにお願いしたい。

 

この「誰のためにも生きない」の、「誰の」のなかには、自分自身も含まれる。

 

僕は、他者のためにはもちろん、自分のためにも生きない。

 

ただそのときどきで、状況に逆らわず流れ漂う。

 

できるかぎりで自他を害さないようにだけ注意して振る舞う。

 

利己も利他も要らない

 

僕たちは、人のために行動することを、利他だといってもてはやすのかもしれない。

 

だから、自分のための行為をエゴだとみなして毛嫌いし、ことさらに利他であろうとするかもしれない。

 

僕も以前はそう思っていた。

 

しかし、今は違う。

 

何が利己的で、何が利他的なのか。

 

そんな定義はどうでもいい。

 

利己や利他の善悪もどうでもいい。

 

とにかく僕は、利己であろうと利他であろうとどうでもいい。

 

いちいち行為を利己だ利他だと区分する気が起こらない。

 

もし自分のために生きることをエゴだというのなら、取り立てて人のためにあろうとすることもまた、本質的にはそれと同じではないだろうか。

 

それもまた、エゴではないだろうか。

 

なぜなら、他者とは自己があるからこそ存在できるもの。

 

利他を強調することは、同時に自分という意識を強調することにほかならない。

 

だから僕たちが、意識して利他的であろうと努力するならば、裏腹に自我意識は強まっていく。

 

これが思考の罠。

 

誰のためにもないこと = 利他

 

あなたは無念を噛みしめる。

 

「そんな馬鹿な」

 

「私はよかれと思ってやっていたのに」

 

あなたの気持ちはよくわかる。

 

そして、あなたは何も間違ってはいない。

 

ただ、現代社会でまことしやかに語られている常識というものと自然の摂理が、あまりにも違いすぎるだけ。

 

ならばもう、ここらで一服つきますか。

 

誰のためでもなく、ただ坐ってみますか。

 

そして、自分の内面に起こることを、肯定も否定もせず、ただ気づき続けてみるとしますか。

 

いずれあなたは理解するだろう。

 

「誰のために」という意味付けのむなしさを。

 

そのときあなたは、「これが自分である」という主張や自他の区分が、自分の心のなかで希薄になっていることに気づく。

 

そして、あなたはその場の状況に溶け込み、ただ行為し、存在している。

 

「誰のために」などという考えが、起こらなくなっている。

 

あなたの心に利己も利他もないとき。

 

あなたの存在は、真の意味で、全体のためになっている。

 

そのときあなたは、大自然と一体である。

 

そこには余計な行為は要らない。

 

なぜなら、誰のためにもないあなたの存在は、大自然そのものだから。

 

大自然は、それそのものが利他。

 

だからあなたの存在もまた、利他そのもの。

 

空虚な詩の結び

 

こんな風変わりな詩を最後まで聴いてくれてありがとう。

 

この詩には、あなたに変化を起こさせるような力はない。

 

だけど、僕は願わずにはいられない。

 

美化することも、貶めることもできないあなたの本心。

 

あるがままのその絶対領域にあなたが気づき、そこに触れることを。

 

そして、あなたは前からずっと、望ましいあなたであったのだと気づくことを。

 

あなたは本当に、何も変える必要はない。

 

ただ観るだけでいい。

 

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空虚な詩⑥ やる気はなくていい

空虚な詩は、当たり前を疑う。

 

「そうでなければならない」

 

そう信じて努力して、燃え尽きたあなたに。

 

あるべきものなど何もない。

 

あってはならないものもない。

 

本当は何も、変えなくていい。

 


僕はだいたいやる気がない。

 

基本、何もやる気がない。

 

でも、何もやらないわけではない。

 

必要なことはやる。

 

やる気がないままやる。

 

ただやる。

 

もし「やる気がないなら帰れ」と言われたら、僕は帰るだろう。

 

だって、やる気がないんだから。

 

ない袖は振れない。

 

ご了承願いたい。

 

「だったらやる気を出せ」

 

思考はそう要求するかもしれない。

 

申し訳ない。

 

その期待には応えられない。

 

あなたが何とおっしゃろうと、そういったことはもうしない。

 

やる気を出そうとすること。

 

そのように、自分の心に何かを起こさせようとすること。

 

それは、自分との不毛な戦いであるということを、僕はこれまでの人生で完全に理解している。

 

やる気は、ないときはないし、出るときは出る。

 

それは僕にコントロールできることではない。

 

やる気を出させようと強制するなら、きっと心は抵抗するだろう。

 

やる気を維持させようと画策するなら、きっとそれは去っていくだろう。

 

そして疲れ果て、結局自分が苦しむだろう。

 

ひいてはそれは、自分もみんなもマイナスだろう。

 

だから僕は、決してやる気を出そうとしない。

 

やる気はなくても取り組める。

 

むしろ余計なやる気は邪魔ですらある。

 

やる気があろうとなかろうと、ただやる。

 

それでもできなければ、やらない。

 

もしやる気がないと許されないのなら、そのような場所に長居は無用。

 

当たらず障らずフェイドアウト

 

いずれあなたは気づく。

 

やる気を出そうとしなければ、やる気は起こるときに起こるということを。

 

さあ、ぼちぼち始めるか。

 

坐ろうとせず、坐るかな。

 

気づこうとせず、気づき続ける。

 

そのとき僕は、やる気がない。

 

やっぱりだいたいやる気がない。

 

しかしたまには、やる気がある。

 

そして僕は、それでいい。

 

僕にはそれが、ちょうどいい。

 

なぜならそれが、僕のあるがままだから。

 

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空虚な詩⑤ 何者でなくてもいい

現代社会では、何者かになろうとするゲームが繰り広げられている。

 

だから僕たちもまた、何者かになろうとする。

 

しかし、袋小路に迷い込む。

 

何者かになろうとすればするほど、自分が何者なのかわからなくなる。

 

そして僕たちは立ち尽くす。

 

そろそろこんなゲームには、別れを告げるか。

 

 

何者にもなれないなら、何者にもならなくていい。

 

いや、むしろ何者にもならないのがいいのかもしれない。

 

僕もまた、何者でもない。

 

それでも健康的に生きている。

 

いちおう職業は、サラリーマン。

 

サラリーマンというカテゴリー内で比較するならば、どうひいき目に見ても、仕事はできない部類に入るだろう。

 

だが、クビになるほどではない。

 

所持している資格といえば、英検3級ぐらい。

 

大学はなかなかにいいところを卒業させていただいたが、社会に出てまったく活かせたためしはない。

 

取り立てて人に誇れる特技もない。

 

生業にしてお金を稼げるような能力もない。

 

ゼネラリストにもスペシャリストにも、サラリーマンにも起業家にも、カウンセラーにもスピリチュアリストにも、農家にもエンジニアにも、教育者にも指導者にも、無職にもホームレスにもなりきれない。

 

優等生にも劣等生にも、善人にも悪人にも、優しくも厳しくもなりきれない。

 

養うべき家族もない。

 

世間の価値観でいえば、半端者と言われても仕方がない。

 

ほかにできることもないので、お金のためだけにサラリーマンをやっている。

 

ただの瞑想好きのおじさんだ。

 

こうした状況に、完全に満足しているといえば嘘になる。

 

しかし、そうした感情もひっくるめて、それでいい。

 

僕は心からそう感じている。

 

なぜなら僕は、何かを掴み取るために生きているのではないから。

 

ただ生きているのだから。

 

もちろん以前は、そうではなかった。

 

何者かになろうともがき苦しんでいた。

 

社会に出てから、取り立てて何もない自分に劣等感の日々。

 

サラリーマンとして冴えない自分。

 

どんなに努力をしても、仕事ができるようにならない。

 

サラリーマン以外の道に活路を見出そうと、自分の特技や適職を探し回っていた。

 

そして新たに何かを始めては、これも違うと乗り換えていた。

 

そんなことを繰り返していた。

 

しかし、どれだけ探してもそんなものは見つからなかった。

 

サラリーマンをやめる勇気もなかった。

 

八方ふさがりだった。

 

疲れ果てた僕は、こうした行いが心から馬鹿馬鹿しくなった。

 

そして、努力を投げ出して、坐り横たわった。

 

ただそっと、意識を置き続けた。

 

するとそれは降りてきた。

 

清々しく穏やかに。

 

「何者にもなれないのなら、何者にもならなくていい」

 

なるほどそうか。

 

そして僕は、何者かになろうとすることをやめた。

 

そして引き続き、職場で働き続けた。

 

「冴えないのなら、冴えないままでいい」

 

「クビにするなら、クビにしてくれていい」

 

「あからさまに存在が迷惑がられるようなら、こちらから去ればいい」

 

活躍することは期待せず、できることだけをやり続けた。

 

たとえ同僚が簡単そうにできていることでも、僕にできないことはできないと認め続けた。

 

取り立てて職場の役に立とうとしなかった。

 

多くは求めなかった。

 

ただ、できるかぎりで同僚や顧客を害さないことだけ注意した。

 

すると、変容は起こった。

 

やってもできない仕事が、僕のもとから自然に去っていった。

 

どうにも相性が合わない人たちが、僕のそばから離れていった。

 

僕の周りには、自分にできる仕事と、自分にもうまくやれる人たちだけが残った。

 

そして僕は、落ち着くところに落ち着いた。

 

そう、それは窓際サラリーマン。

 

なろうとしてなったのではない。

 

自然とそうなった。

 

もしなろうとしていたなら、これもきっとなれなかっただろう。

 

世間的なイメージは決して良くはないだろうが、僕にはベストなポジションだ。

 

むしろ、華々しい職業より断然これがいい。

 

なぜならそうした仕事には、たいてい僕の手に負えない職責が与えられているから。

 

そのほうが僕には耐えられない。

 

もう労働というものに、生きていける分だけの賃金以上のものを望むことはない。

 

社会や人生に、「もっと良く」を求めることはない。

 

耐えられる範囲で生きていければ、僕はそれでじゅうぶん。

 

そうであるなら、僕にとって職業はさして重要ではない。

 

自分にできない仕事でないならば、それでいい。

 

窓際サラリーマンでなくてもいい。

 

生きていけるのなら、無職でもいい。

 

生き方は、型にすぎない。

 

生きることそのものではない。

 

時とともに変わっていいし、生きていけるのなら、究極的には何でもいい。

 

そもそも生き方なんてなくてもいいのかもしれない。

 

過去の自分の無念に報いるため、ひとつだけ言わせていただく。

 

この社会のしくみは、個人の能力というものに過大な価値を与え、それに依存している。

 

僕にはそう見える。

 

「私の能力」

 

過剰に誇示するならば、これもまた自我意識を強化する。

 

だから僕は、それには賛同しない。

 

もう能力や職業に、自分の存在意義を見出そうとはしない。

 

この気づきの後、

 

引き続き僕は、何者にもなろうとしなかった。

 

何かになりたい欲求が起こったら、ただそれを野心と認め続けた。

 

そして、できるかぎりでそれらには取り合わなかった。

 

何も求めずに坐り続けた。

 

忍耐づよく。

 

すると、自分自身の内にじわじわとそれは起こる。

 

何だろう、この不安定ななかの揺るがない安心は。

 

「何者」などという枠にはまらない存在感。

 

言葉では表せない。

 

それは思考を超越していた。

 

自分に存在価値というものがあるのなら、これがまさにそれだ。

 

何者にもなろうとしないことで、真の自分自身に立ち返った。

 

そして、今に至る。

 

僕たちの価値は、何者であるかということにあるのではない。

 

僕たちそのものにある。

 

生命にある。

 

だから僕は、今日も坐る。

 

何も誇らずに。

 

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空虚な詩④ なりたい自分になろうとしない

むなしさは、ひとつの虚像との決別。

 

自分から何かがそぎ落とされようとするサイン。

 

僕は今日も、この詩を歌うだろう。

 

 

なりたい自分になろうとすること。

 

現代では、それが美徳だと信じられているように、僕には感じる。

 

僕はこれを徹底的に疑った。

 

なりたい自分になろうとすることは、本当に美しいことなのか。

 

僕は答えを求めずに、自問し続けた。

 

なぜなら、僕にはそれが苦しすぎたから。

 

胸が引き裂かれるような渇望。

 

激しい嫉妬心。

 

ムラムラと沸き起こる対抗心。

 

周囲との軋轢。

 

そして何よりも・・・

 

なりたい自分ではない、今の自分の否定。

 

理屈ではなく、勝手に起きてくるこれらの激情。

 

僕にとって、それらへのとらわれは、地獄以外の何ものでもなかった。

 

だから僕は、我が身をもって実験をした。

 

なりたい自分になろうとする思考に同調することをやめた。

 

そして、内面渦巻くこの激情に、ただ気づき続けた。

 

今ここにいる自分自身に、

 

呼吸に、

 

身体に、

 

心に、

 

できるかぎりで意識を置いた。

 

これはシンプルな取り組みだった。

 

が、簡単なことではなかった。

 

当然のごとく、思考は僕を誘惑してくる。

 

なりたい自分にならせようとする。

 

思考が強迫をする。

 

「なりたい自分になれないと危険だぞ」と。

 

とても不快だ。

 

しかし、これがただの強迫であることも、僕は知っている。

 

この強迫に乗ったなら、またあの不毛な達成ゲームが繰り返されることも、僕は熟知している。

 

だから僕は、これに取り合わない。

 

もちろん否定もしない。

 

そしてまた気づき続ける。

 

何度も何度も。

 

これが不快さを伴うとはいえ、なりたい自分になろうと努力するときのあの感覚、

 

どうにもならないもどかしさ、

 

搔きむしられるような劣等感、

 

どこまで行ってもたどり着かないかんじ、

 

それらに比べれば、まるで耐えられるものだった。

 

これを忍耐強く繰り返したとき。

 

僕の気づきは、意識的に何かになろうとする思考の本質をすっかり理解していた。

 

それは、

権力への野心と根本的に同じだった。

 

そして僕は、なりたい自分になろうとすることを完全にやめていた。

 

なりたい自分になろうとしないとき。

 

僕に驚くことが起こった。

 

なりたい自分というものが、もはや心に存在していなかった。

 

他者への憧れというものが、見当たらなくなっていた。

 

そして、いつのまにか、なりたかった自分になっていた。

 

いや、なっていたのではない。

 

実は、はじめからそうだった。

 

そのことに気づいた。

 

そこには意図的なぎこちなさはなかった。

 

きわめて自然で調和的だった。

 

そう。

 

なりたい自分になろうとしないこと。

 

それは、あるがままの自分で生きるということ。

 

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空虚な詩③ 戦いの終焉

空虚な詩を口ずさむ。

 

むなしさには、可能性があるのかもしれない。

 

そう感じられるあなたに捧げたい。

 

 

戦いの結末は敗北。

 

そう決まっている。

 

たとえひとときは勝利に見えたとしても、人生全体で観ると、いずれ敗北。

 

なぜなら、それが戦いの本質だからだ。

 

僕は自らの人生で、嫌というほどそのことを味わった。

 

打ち負かした敵。

 

ー 敵は人間とは限らないが ー 彼は復讐の機会をうかがうだろう。

 

そして、さらに強い勢力をもって戦いを挑んでくるだろう。

 

だから戦い続けるかぎり、僕たちはどこかで敗北する。

 

たとえどんなに立派な大義名分によって、自らを正当化したとしても、それは変わらない。

 

だから僕は、戦わない。

 

できるかぎりで。

 

それでもやはり、戦いが避けられないときもある。

 

人間として生きる以上、それは仕方がない。

 

もし戦いになるのなら、僕はつかの間の勝利よりは、敗北がいい。

 

なぜなら勝利とは、新たな戦いへの入口。

 

そして敗北とは、その戦いが終わったことを意味する。

 

ひとつ敗北するたびに、僕たちはひとつの重荷から解放される。

 

だから僕は、何も勝ち取らない。

 

しかし、相手とがっぷり対峙して敗北することは、とてもつらい。

 

僕にはもう、そんな精神力はない。

 

戦いが避けられないのなら、僕はできるかぎりでそこから逃げる。

 

そしてすべてを明け渡す。

 

勝者は相手に譲る。

 

そうすれば、この不毛な戦いから離脱できる。

 

そんな僕を思考は、情けないやつだとなじるかもしれない。

 

もっと頑張れと鼓舞するかもしれない。

 

どう言ってくれてもいい。

 

それでも僕は、戦わない。

 

はじめからマイナスにしかならないとわかっていることのために、僕は人生の時間を使うことはできない。

 

いずれあなたもわかるだろう。

 

抵抗をやめたときが、真の戦いの終焉であるということを。

 

そしてそれは、相手による支配の甘受とは違うということを。

 

さあ、戦わずに坐ろうか。

 

そして、気づき続けようか。

 

そのときあなたに負けはない。

 

なぜなら、あなたは戦わないからだ。

 

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空虚な詩② フェイドアウト

空虚な詩を僕は歌う。

 

むなしさとは、本当は忌み嫌うようなものではないのかもしれない。

 

そう感じられる方が聴いてくださったなら幸い。

 

 

仕事についていけないので、職場からフェイドアウト

 

人間関係にどうしてもつまずくので、人間関係からフェイドアウト

 

疲れ果てたので、社会からフェイドアウト

 

この社会には、僕の手に負えないことであふれている。

 

だから僕は、活躍することをあきらめた。

 

なるべく自他を害さずに生きていければそれでいい。

 

できるかぎりで求めない。

 

色々なものとの接点を、少しずつ小さくしていく。

 

意図しなくても、そうなっていく。

 

どうやらこれが、僕のあるがままの方向性のようだ。

 

もう僕は、ゲームから降りている。

 

既に一生分の努力をしたので、

 

努力とは、あるがままの自分から逃避することだと理解したので、

 

むしろ頑張らないことが、自他にとってプラスであることを散々目の当たりにしたので、

 

僕は頑張るという対処法を捨てている。

 

どうぞ僕にかまわず先に行ってください。

 

僕は河原の虫の声を聴きながら、ただ坐っています。

 

僕はそれでじゅうぶんなのです。

 

「そんなことをしたら、何もかも失ってしまうのではないか」

 

優しいあなたは、そのように気遣ってくれるかもしれない。

 

ありがとう。

 

でも大丈夫。

 

外形的にはたとえ何かを失ったように見えても、僕たちの身体はここにある。

 

呼吸もここにある。

 

心もここにある。

 

まぎれもなく僕の存在は、今ここに。

 

だから本当は、何も失くしてはいない。

 

もちろん、あなたはそのように思おうとしなくていい。

 

僕の真似などしなくていい。

 

何かを捨てようなどと努力しないでほしい。

 

だって、あなたももううんざりでしょう。

 

人の生き方を真似るのは。

 

それでいい。

 

それが馬鹿馬鹿しいと感じるなら、馬鹿馬鹿しいと認めていい。

 

何かを失くして悲しいなら、存分に悲しんでいい。

 

そして、もし耐えられるなら、

 

あなたが感じているそのむなしさは、ごまかそうとしないでほしい。

 

そこにはきっと、あなたの本心が眠っているのだから。

 

どうかそれをないがしろにしないでほしい。

 

ここまで聴いてくれてありがとう。

 

そろそろ僕は、フェイドアウト

 

今日も明日もフェイドアウト

 

誘惑があってもフェイドアウト

 

そうこうしているうちに、寿命が来た。

 

ならば、人生からもフェイドアウト

 

もう何にも生まれ変わりたくない。

 

ならば、輪廻からもフェイドアウト

 

すべてからフェイドアウト

 

すると、思考はジャッジするかもしれない。

 

「チャレンジを放棄するなんて」

 

「消極的なやつだ」

 

「そんなのは最悪の人生だ」

 

お言葉だが、大きなお世話。

 

誰もがみんなチャレンジを望んでいるわけではないだろう。

 

よけいなチャレンジをしないこと。

 

僕にとってそれは、喜ばしい人生だ。

 

だから、そんな雑音からもフェイドアウト

 

いずれはみんな、この世での生を終える。

 

ならば、フェイドアウトとは、美しい幕引きのひとつではないだろうか。

 

僕はそう感じる。

 

だから僕は、フェイドアウト

 

すべてからフェイドアウト

 

そして僕は、今日も坐る。

 

何も求めずに。

 

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空虚な詩① むなしさは創造の母

 

空虚な詩を僕は歌う。

 

もしかするとあなたは、聴くに堪えないかもしれない。

 

申し訳ない。

 

それでも僕は、この詩をやめることはできない。

 

前向きであろうとすること。

 

そのことを、本心では窮屈に感じている人。

 

にもかかわらず、そう感じることに対して罪悪感を抱いている人。

 

本当は疑問を感じつつも、強迫感から前向きであろうと努力している人。

 

そんな人の何かに響くものがあるならば、僕はそれでじゅうぶんだ。

 

僕たちは、前向きでなくても生きていける。

 

前向きも後ろ向きもなくなったとき、僕たちは、おのずと自分に適した方向に進み出す。

 

あなたがそのことを理解するきっかけになればこれ幸い。

 

むなしいということ。

 

現代社会では、きっとそれは嫌悪されていることだろう。

 

「むなしいことは不幸なこと」

 

そのように信じられているのかもしれない。

 

だから、僕たちはむなしさを埋めようとする。

 

むやみな行動によって。

 

もちろん僕もそうしてきた。

 

しかし、その行動の結末は、やはりむなしさだった。

 

だから、また代わりとなる行動によってそれを満たそうとする。

 

その繰り返し。

 

そうしたことを続けてきて、あるとき僕は思い始めた。

 

むなしさを埋めるための行動は、結局は新たなむなしさを生むだけなのではないのか。

 

むなしさとは、本当に忌み嫌われるようなものなのか。

 

むなしさをそのままにしておいたらどうなるだろう。

 

むなしさを変えようとせず、

 

消そうとせず、

 

追い出そうとせず、

 

自分の心に居させてあげたらどうなるのだろう。

 

そこで僕は実験してみた。

 

むなしさに抵抗せず、ただそれとともにあり続けた。

 

たとえ気持ち悪くても、忍耐づよく。

 

はたから見ると、ただの覇気のない中年男性かもしれない。

 

それでもかまわなかった。

 

もうそれ以上、むなしさを上塗りするような行いをしたくなかったから。

 

ただむなしいまま坐り、横たわった。

 

坐るのにも疲れたら、今無理なくできることだけをやった。

 

包丁を研いだり、庭の草木に水をあげたりした。

 

すると、野心という名の思考が誘惑してくる。

 

「もっと俺の才能を活かせるものを探そう」

 

「俺は本来活躍をして、注目されるべき人間だ」

 

「奉仕活動をすればヒーローになれる」と。

 

しかし僕は、それが思考の罠であることを理解している。

 

もうその手に乗らない僕は、その誘惑に応じず、また逆らいもしなかった。

 

引き続き、むなしさに浸る。

 

そして坐り、横たわる。

 

すると、それはじわじわと起きてきた。

 

何だろうこれは。

 

心に引っ掛かりがなく軽快だ。

 

しかし、ひたすらに穏やかだ。

 

ムラムラとするような、あの攻撃的な高揚感はない。

 

むなしさという空間から、泉のように湧いてくる。

 

それは思考を超えていた。

 

喜ばしく、どこか創造的だった。

 

むなしさとは、実は毛嫌いするようなものではなかった。

 

自らの心が発するメッセージだった。

 

「そろそろこの不毛なチャレンジをやめてはどうか」と、僕たちに教えてくれているのだ。

 

その声をただ聴くだけでよかったのだ。

 

むなしさを脱しようともがくことが新たなむなしさを生み、

 

むなしさをそのままにしておくことで、そこから真の創造が起こる。

 

僕はあっけにとられた。

 

しかし、ほどなくして僕は思い出した。

 

そうだった。

 

ここは逆説の世界だった。

 

だから僕は、今日も坐る。

 

むなしさをむなしさのままにして。