本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

平和


あなたの心が平和なとき、

 

その目に映るあの人も平和。

 

そして、世界も平和。

 

なぜなら、あなたの心が平和だから。

 

もうあなたは聞き飽きたかもしれない。

 

しかし、言わずにはいられない。

 

真の平和とは、単純に「戦争がない」という外形的な状況を指すのではない。

 

それは僕たちの内面の状態をいう。

 

一人ひとりの心が平和なとき、真の平和が実現する。

 

それは社会運動などで達成するようなものではない。

 

もちろん、どこかの国の独裁者を批判することで、成立するようなものではない。

 

また、キラキラした言葉で内面を美化することで、叶えられるものでもない。

 

一人ひとりが自分の内面を、ごまかさずに観察し続けるとき。

 

美点だけでなく、自身の内面にある愚かさを愚かだと正直に認めるとき。

 

そしてそれらを、正当化も非難もすることなく、ただそのまま観るとき。

 

平和がそこにあることに気づく。

 

それは実現を目指すような目標ではない。

 

ことさらに優しい言葉で語られるようなものでもない。

 

一見そっけなく、自然で、そして穏やかなもの。

 

そして、すでに僕たちの心にあるもの。

 

そこに気づくかどうか。

 

それは、僕たち一人ひとりの自覚にかかっている。

 

残念ながら、誰かが誰かの心を平和にさせることはできない。

 

だから、他者に平和を求めても仕方がない。

 

自分の心が平和であれば、それでじゅうぶん。

 

ならばもう、誰かに期待せず、ただ坐ろうか。

 

そして、何も目指さず、何も求めず、ただ気づき続けようか。

 

そのとき僕たちは、平和である。

 

そして僕たちは、おのずと理解する。

 

僕たちが平和であるとき、僕たちの存在そのものが、他者に影響を与えているということを。

 

意識して平和的な行動をしなくても、周囲に平和の波紋が広がることを。

 

むしろ平和にさせようとはからうと、争いが誘発されるのだということを。

 

だから僕たちは、平和の主張などしなくていい。

 

ただ気づいていればいい。

 

なぜならそれが、平和の近道だからだ。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

為真白山神社 ~奥美濃ぶらり旅③~

白鳥の街が近付いてきました。

 

国道156号線沿い、白鳥の中心地より少し南。

 

以前から、道路沿いにある森がずっと気になっていました。

 

「神社のようだが、ここは何だろう。」

 

車窓から横目で眺めますが、森の外からは中がよく見えません。

 

でもわざわざ寄るのもおっくうだったので、いつも車で横を通り過ぎるだけ。

 

今回は、ここに立ち寄ってみました。

 

為真白山神社

 

為真。

 

どう読むかわかりますか?

 

「ためざに」だそうです。

 

いや、読めませんよ。

 

以前から気になっていたこの森は、やはり神社だったようです。

 

駐車場がよくわからなかったので、なるべく邪魔にならなさそうな場所に、少しの間駐車させていただきました。

 

 

立派な境内です。

 

中央には、これまた立派な舞台があります。

 

 

神楽か、はたまた拝殿踊りか。

 

何に使うものなのかはわかりませんでした。

 

白山神社」の名を冠していますが、ご祭神はイザナミのみで3神ではないようです。

 

肌で感じる空気も、あまり白山神社っぽくなかったです。

 

僕以外、参拝者の姿を見かけませんでした。

 

しかし、手入れもきれいに行き届いている様子。

 

地元の方々にとって、大切な場所であることは間違いないでしょう。

 

結局何なのかよくわかりませんでしたが、以前から気になっていた場所を調査できたということで満足です。

 

 

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為真白山神社

岐阜県郡上市白鳥町為真1184

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岐阜県神社庁のサイトより

http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=1535

 

おまけ・白鳥おどり

 

※このレポートには写真がありません。

 

その夜、白鳥おどりに参加しました。

 

コロナで2020年、2021年は開催されませんでしたので、3年ぶりです。

 

踊り会場は、白鳥駅前の新栄町です。

 

結構狭い道路。

 

踊りは夜8時から。

 

会場の入口で検温と消毒があり、マスクを着用して踊ります。

 

ポストコロナですね。

 

ほとんど練習せずに臨みましたが、細かい部分を気にかけなければ、ノリでまあまあ踊れるものです。

 

曲のテンポがどんどん速くなり、僕のテンションも自然に上がっていきます。

 

まさに我を忘れて、会場と一体になります。

 

マスクをしていたからか、それとも僕が年をとったからか(笑)、間でスタミナが切れることもありましたが・・・

 

休憩をはさみながらも、3時間踊り切りました。

 

他の踊り手たちも、思い思いに踊りを楽しんでいるようでした。

 

ローカル感、自由度、一体感。

 

白鳥おどりはやはり、僕にとっては欠かせない夏の風物詩です。

 

tabitabigujo.com

 

じぇいあんの奥美濃カレー ~奥美濃ぶらり旅②~

奥美濃地方へは、何度来たかわからないくらい足を運んでいます。

 

訪れるたびに、僕はここに寄ります。

 

 

食の家 じぇいあん

 

岐阜県郡上市大和町

 

田園と山河が広がるのどかな風景のなかに、清廉な空気も感じます。

 

メインストリートの国道156号線沿いに、「食の家 じぇいあん」はあります。

 

僕はいつも、「ガーリックオムカレー」をいただきます。

 

 

 

とろとろ卵とほどよく効いたガーリックの味。

 

味噌のほかにトマトも入っているのでしょうか、まろやかで濃厚です。

 

カレールーはかなり暑いので、猫舌の人はご注意を。

 

茶店のような店内には、地元の人たちがありのままの姿でおだやかに談笑しています。

 

僕もここでは、あたかも地元民のようにくつろぎます。

 

理由はないけど落ち着く場所。

 

やはり何度来ても、また来たくなるのです。

 

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食の家 じぇいあん

岐阜県郡上市大和町254-11

(0575)88-2095

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「食の家 じぇいあん」のウェブサイト

j47.jp

 

奥美濃カレー

 

ここ奥美濃地方には、奥美濃カレーなるご当地グルメがあります。

 

郡上味噌と郡上産の食材を使ったカレーを指します。

 

今回紹介したじぇいあんのカレーもまた、奥美濃カレーです。

 

岐阜県の中心部を南北に走る国道156号線には、ほかにも奥美濃カレーのお店がたくさんあります。

 

この地方が醸す雰囲気と同じく、素朴で飾らないからこそまた食べたくなる、そんなグルメです。

 

www.okuminocurry.com

 

白山神社(岐阜市) ~奥美濃ぶらり旅①~

ある夏の日。

 

「白鳥おどり」に参加したいと思い、奥美濃へ向かいます。

 

関西から新幹線と在来線でJR岐阜駅まで移動し、岐阜駅からはレンタカーで行きます。

 

やっぱり新幹線って楽ですね。

 

新大阪から名古屋まで、のぞみ号だと50分で行けるのですね。

 

さて、岐阜市から奥美濃へ向かう途中。

 

岐阜市の東のはずれに、たまたま雰囲気のある神社を見かけたので寄りました。

 

白山神社です。

 

 

北陸地方を中心にして、全国各地にある白山神社

 

やはりここも、その一社なのでしょう。

 

ご祭神は、白山神社総本宮である白山比咩神社と同じく、イザナギイザナミ・白山菊里姫の3神です。

 

「地元の神社」というかんじですが、何やら惹かれるものを感じます。

 

 

参道からの拝殿の眺望がイイですね。

 

今回は断念しましたが、裏山(野一色権現山)の山頂には奥の院があるようです。

 

よそ様のブログで拝見しましたが、すばらしい景色が広がっているみたいですね。

 

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白山神社

〒500-8226 

岐阜県岐阜市野一色8丁目18番2号

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奥の院登山情報(いち様「いちのトレッキングブログ」より)

ichi-trekking.com

 

岐阜県神社庁のサイトより「白山神社」詳細

http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=947

 

何も目指さない


瞑想とは、何も目指さないこと。

 

何も得ようとせず、ただそっと意識を置くこと。

 

だから、僕たちはなるべく目指さない。

 

これを忍耐づよく続ける。

 

そのとき、目指さないことによって、僕たちに様々な恩恵が現れることに気づく。

 

それはリラックスであったり、

 

洞察であったり、

 

静寂であったりするかもしれない。

 

それが何であれ、

 

瞑想によって起こる恩恵は、すべて副産物であるということがわかる。

 

なぜなら、何も目指していないから。

 

もとよりそれを得るという目標を持って臨んではいないから。

 

「そうか、目指さないことで恩恵が得られるのか」

 

そこで、味をしめた欲張りな思考たちは、姑息なはからいをしたがるかもしれない。

 

恩恵を得るために、何も目指さないようにするかもしれない。

 

しかし、これはうまくいかない。

 

なぜなら、矛盾しているからだ。

 

何も目指さないという手段をもって、恩恵を得ることを目指しているからだ。

 

残念ながら、瞑想の恩恵はそこには訪れない。

 

何も目指さないとは、目指さないように努力することではない。

 

何かを目指したとき、目指したということに気づいていればそれでいい。


何かを目指す思考を押し殺したり、どこかへ追いやる必要はない。


ただそのままにしていればいい。

 

それが目指さないということ。

 

これを日常にも応用することで、僕たちは、日々の生活においても同じであることに気づく。

 

到達しようと努力したならば、それはどこまでも遠ざかり、

 

目指さないとき、いつのまにかそこにいたということに。

 

そのとき僕たちは、ひとつの真実を発見する。

 

現代社会で信じられていることは、順番が逆であるということを。

 

目指すから得られるのではない。

 

ただ存在し、ただ行うことで、自分に見合ったものを受け取れるのだ。

 

むしろ目標は、存在や行為の妨げにすらなりうる。

 

だから僕たちに目標はなくていい。

 

目標などなくても、ただ生きていれば、必要なものはおのずと与えられていることに気づくだろう。

 

しかし、あなたはまだ釈然としない。

 

「本当に目指さなくて大丈夫だろうか」

 

ひとつの危惧があるからだ。

 

「目指さなかったら、私は道に迷ってしまうのではないか」

 

あなたの不安はよくわかる。

 

僕もずっと、同じことを恐れていた。

 

瞑想に取り組むまでは。

 

だが、あなたはただ気づき続けることで、この危惧が取り越し苦労であることを知るだろう。

 

目指さないことで、あなたは真に自分に見合った方向へ進んでいることだろう。

 

なぜなら、目指さないとき、僕たちはそのときどきで自分にとってのベストな対処をしているからだ。

 

いっぽうで、思考で作られた目標は、しばしば意図的・野心的だ。

 

だから、あなたを得する結果に向かわせようとするかもしれない。

 

それはますます道を迷わせる。

 

なぜなら、得する結果とは、自他の意図によってころころと移ろうからだ。

 

目指すことで道に迷い、

 

目指さないことでベストな方向へ進む。

 

どうやらそれが、自然の摂理のようだ。

 

「そんな馬鹿な、これまで信じてきたことはいったい・・・」

 

あなたは呆然と立ち尽くす。

 

大丈夫。


気がすむまでそのむなしさのなかに浸ってかまわない。

 

ほどなくあなたは目の当たりにするだろう。

 

ここが逆説の世界であることを。


そしてあなたはまた、自分に適した時期に、自分に適したスピードで動き出すだろう。


何も目指さずに。

 

瞑想録・生きる意味

 

第1章 生きる意味の探求

 

「僕が生きる意味は何だろうか」

 

この壮大なテーマは、僕たちに中毒症のような魅力を感じさせる。

 

「今世で自分に与えられた使命が、どこかにあるに違いない」

 

「僕はこれが好きだから、これかもしれない。」

 

「あれは苦手だから、あれではないだろう。」

 

僕もまた、そのように探し続ける。

 

あるときふと出会う。

 

「そうか、僕はこれをするために生まれてきたんだ」

 

そして夢中でやってみる。

 

やはりどこかしっくりこない。

 

または大きな壁にぶち当たる。

 

「やっぱりこれでもないらしい」

 

そしてまた別の使命を求めて探し歩く。

 

よく観察すると、この探求はこうした繰り返しであることに気づく。

 

そして、この探求の結末は、決まって失望であることがわかる。

 

なぜなら、これは意図的な探求だからだ。

 

意図的な探求というものは、結果に対して報酬を求める。

 

じゅうぶんな報酬が得られないことに対する不満は、僕たちを新たな探求へと駆り立てる。

 

第2章 探求の終焉

 

そのような探求にむなしさを感じた僕は、探求する気が失せる。

 

乾いた笑いがこみ上げる。

 

そして、ただ坐る。

 

そっと意識を置き、思考を思考と気づき続ける。

 

するとある大きな事実に気づく。

 

生きる意味と称して意図的に探し求めていたあれも、やはり思考であるということを。

 

そして、思考の中身には実体はなく、今ここに存在している身体や心そのものこそが実体であるということを。

 

「これが僕の生きる意味」「これが僕の使命」というような思考が作りあげた自己イメージは、今ここにいる自分の存在そのものの奥深さにはまるで及ばないということを。

 

そのことに気づいた僕は、もはや生きる意味を探していなかった。

 

僕のなかで、その重要性がなくなっていたからだった。

 

そして、探すことをやめた僕は、今ここでできることだけを、なるべく選択をせずにやり続けた。

 

今できることが何もなければ、何もしなかった。

 

仮にほかの人が労せずできることであっても、今の僕にできないことはできないと認め続けた。

 

すると僕にそれが降りてきた。

 

「人生において、夢や目標はなくてもいい」

 

「ただ生きていればいい」

 

そのとき、僕の心はとても軽いことに気づいた。

 

第3章 ただ生きるために生きる

 

僕が生きていることに意味があるのかないのか、僕にはわからない。

 

そして、それでいい。

 

意味は要らない。

 

使命も同じ。

 

あるのかもないのかもわからないし、わからなくていい。

 

僕には生きるうえでの立派な大義名分はもちろん、夢さえも持ち合わせていない。

 

ただ生きている。

 

生きることに目的があるとすれば、ただ生きること、それだけ。

 

そして、それでじゅうぶん。

 

終章 生きる意味は大自然に任せる

 

庭を這うダンゴムシもまた、ただ生きている。

 

僕たちはダンゴムシが生きる意味など、おそらく興味を持たないだろう。

 

もしかすると、何の役にも立たない生物だと侮ることもあるかもしれない。

 

ダンゴムシはただ生きるために、落ち葉や枯草を食べている。

 

しかし全体で見れば、地球上の掃除という偉大な一役を担っている。

 

というのも、ダンゴムシが落ち葉や枯草を細かく砕くことによって、それらは土に還りやすくなるからだ。

 

ダンゴムシがいなかったら、落ち葉や枯草が処理しきれないかもしれない。

 

ダンゴムシは意図してその役目を探し出したわけではないだろう。

 

彼らにとってただ生きることが、全体で見るとその役目だったというだけだろう。

 

自分たちにとって、生きるために必要だったから、そうしていただけだろう。

 

だから僕も、ただ生きることだけに専念している。

 

ただ生きること以外のすべてをあきらめ、ゆだねている。

 

今の自分にできることだけを、できるかぎりにやっている。

 

庭に這うダンゴムシのように。

 

僕の生きる意味や使命などというものは、僕が決めるものではない。

 

あるかないかも含めて、すべて大自然にお任せしていればいい。

 

結局それが、最適の人生になるのだから。

 

僕はそう確信した。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

優しくなろうとしない

 

「優しくなければならない」

 

あなたはそのように、優しい人間になろうと自己改造に挑んできたかもしれません。

 

しかし、どんなに努力を続けても、自分のなかの優しくない一面がムラムラと顔を出します。

 

「だめだ、優しくなれない」

 

あなたはそのように自分を責めてきたのかもしれません。

 

そしてあなたは、優しくなれないのは自分の性格に問題があるからだと考えて、セラピストなどが書いた優しくなるためのマニュアルを実践します。

 

そこには、聖人君子とみまがうばかりの優しい語り口の言葉が並んでいます。

 

他者との優等生的な接し方や、常に優しくあるための心がまえなども書かれています。

 

もちろん僕たちは、努力してそれを真似ようとします。

 

しかし、どんなに頑張ってもそのとおりにはできません。

 

本当はそのとおりになどできなくて当然なのですが・・・

 

優しくありたいあなたは、できない自分をさらに責め立てます。

 

なんという苦行でしょうか。

 

僕もそうだったので、あなたの苦悩は痛いほどよくわかります。

 

そろそろあなたは、この努力を見直すときが来たのかもしれません。

 

優しくなければならないのか

 

僕たちは、本当に優しくなければならないのでしょうか。

 

もちろん、優しいことはすばらしいことであると思います。

 

僕も優しい人は好きです。

 

優しいにこしたことはないでしょう。

 

しかし、それは無理をしてなろうとするものでしょうか。

 

根本的にこのことを問い直していただきたいのです。

 

答えを求めずに。

 

すると、僕たちの前にひとつの疑問が降りてくるのです。

 

今、優しくできないのに優しくなろうとすること。

 

それは自己否定ではないか、と。

 

優しくあることに対する過剰な価値づけ

 

あなたは抵抗を感じたかもしれません。

 

「なぜ優しくなろうとする善意に対して、そんな優しくないことを言うのか」

 

そう思ったかもしれません。

 

よくわかります。

 

僕も同じ立場なら、そう思うことでしょう。


もしあなたを不快にさせたなら、申し訳ありません。

 

それでも僕は、伝えずにはいられないのです。

 

なぜかと申しますと、現代社会において、ことさらに好意的に振る舞うことが、行きすぎなくらいにもてはやされているように感じるからです。

 

優しくあることに対して、過剰な価値づけがなされているのではないか。

 

そしてその呪縛が、ときに僕たちを苦しめさえするのではないか。

 

僕はそう思うからです。

 

優しいふりをする

 

では、根本的な部分に目を向けてみましょう。

 

優しさとは、優しくなろうとすることで実現するものなのでしょうか。

 

たしかに僕たちは、優しいふりをすることはできます。

 

もちろん僕も、しょっちゅう優しいふりをしています。

 

仕事中なんて、優しいふりしかしていないといっても過言ではないかもしれません。

 

「ふりをするなんて、嘘をついているようでけしからん」

 

あなたはそう思ったかもしれません。

 

しかし、ちょっと待っていただきたいのです。

 

自分がふりをしているという自覚があるなら、優しいふりをすることはとてもすばらしいことです。

 

今は信じられないかもしれませんが、本当にそうなのです。

 

だから、優しくありたいと強く願うのなら、優しいふりをしてはいかがでしょうか。

 

真の優しさは努力で身につくものではない

 

しかし、私はふりではない真の優しさを身につけたいのだ。

 

そのやり方が知りたい。

 

あなたはそう思ったかもしれません。

 

そこで僕たちは、問うてみるのです。

 

優しさとは、意識的に起こせるものなのか、と。

 

そこで、ひとつの仮説が現れるのです。

 

違うのではないか。

 

優しさとは、意識的に出せるようなものではないのかもしれない、と。

 

なぜなら僕も、意識的努力によって、長い間ずっと優しくなろうとしてきたからです。

 

そして、もう無理だというところまで続けてみて理解しました。

 

努力によって真の優しさを身につけることはできない、と。

 

意図的にできるのは、前述のとおり優しいふりまでです。

 

そして、それもまた建設的なことです。

 

優しさは心に余裕があるときに起こる

 

では、優しさが努力によって身につかないのなら、私たちはどうすればいいのか。

 

真の優しさとは何なのか。

 

戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。

 

優しさとは、自然に起こるものではないでしょうか。

 

いちど自身の内面をじっくりと観察していただきたいのです。

 

どんな場面で自然と優しく振る舞えるのか、を。

 

するとあなたは、ひとつの真実を発見するのです。

 

優しさとは、心に余裕があるときにのみ起こりうるものであるということを。

 

何度も言いますが、それは沸き上がるものであり、出そうと思って出せるものではないのです。

 

余裕があるということ

 

余裕があるときに優しさが起こる。

 

ならば、余裕があるとはどういうことか。

 

どれぐらい余裕があれば優しさは起こるのか。

 

僕たちはそういうことを知りたがるかもしれません。

 

身も蓋もない言い方で恐縮ですが、そこに答えはないでしょう。

 

ここで言う余裕とは、相対的なものではありません。

 

これだけあればいいとか、そういった基準もありません。

 

自分が感じられるかどうか。

 

それだけではないでしょうか。

 

だから、忙しくても余裕を感じられるときはあると思うし、

 

逆に、さして何もなくても余裕なく感じられるときもあるでしょう。

 

自分の内面に余裕があるかどうか。

 

つまるところ、そこに尽きるのではないでしょうか。

 

余裕がない環境を離れる

 

だから、自分なりに工夫を尽くしても、余裕が感じられないような状況がずっと続く、そんな環境に身を置いているとき。

 

もし可能であるならば、その環境を離れるというのもいいかもしれません。

 

「逃げているようで嫌だ」

 

あなたはそう感じたかもしれません。

 

もちろん、それでかまいません。

 

その感じ方を大切にしていただきたいと思います。

 

だから今、そこを離れられないなら、離れようとしないことです。

 

それもまた優しさです。

 

しかし、余裕があるときでいいので、このことも知っていただきたいのです。

 

どうしても耐えられない場所から離れること。

 

そのことであなたに精神的な余裕ができるのなら、あなたは自分にも他者にも優しさを取り戻すことでしょう。

 

ひいてはそれは、自分にとっても周囲にとってもプラスになるのです。

 

だから、耐えられないと強く感じるときは、そこを離れることも有効な手段のひとつです。

 

優しくなくてもいい

 

補足として、優しさというものについて、根本的な問いかけを付け加えましょう。

 

優しくないということは、本当にそれそのものが有害なのでしょうか。

 

どうやらそうではないらしい、ということがわかるのです。

 

まずあなたは、優しくないことが有害であるという理由として、厳格であることはよくないことだという考えを挙げるかもしれません。

 

今はその内容の是非はさておきましょう。

 

仮に厳格であることが望ましくないことだとして、

 

本当に優しくないことは、イコール厳格であるということになるのでしょうか。

 

これはすぐに違うとわかります。

 

なぜなら、「優しくない」のなかには、無数の「優しくもないし、厳しくもない」が存在しているからです。

 

だから、厳格な自分が嫌なら、厳格にさえ振る舞わなければそれでいいのです。

 

優しくなくてもいいのです。

 

優しくなろうとしないこと = 優しさ

 

さあ、優しくなろうとせずに坐りましょう。

 

そして、ただ気づき続けていましょう。

 

それもまた優しさです。

 

大丈夫。

 

あなたは優しくなろうと努力しなくても、既に優しいのです。

 

なぜなら、優しくできない自分を責めるほど、人に優しく接したいと強く願っているからです。

 

そんなあなたが優しくないはずがありません。

 

だから、あなたはそのままでいいのです。

 

そのままのあなたを許容することで、心に余裕が生まれるのです。

 

真の優しさは、そこから始まるのです。

 

それがこの世界です。