本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

「許す」ということ

私はかつて「許す」ということを必要以上に難しいものだと考えていました。

今でも決して簡単なことではないと思っています。

ポイントは「必要以上に」難しいものと捉えていたということです。

というのも、自己啓発本などでよく言われる「許しましょう。」を、あたかも相手に嫌悪感など抱かず、相手の全てにイエスと言いましょう。というような意味だと解していたからです。

(当時の私は、巷のポジティブシンキングと言われるものを、それくらい脳天気なものと思っていたようです。)

今は、マインドフルネスの実践を通して、「許す」ことに対して違った捉え方をしています。

まず、相手を好きかどうかは問題ではないと思っています。

もちろん、嫌悪感もあっていい。

「許せない人」が近づいてきたとき、あなたはどのような反応を示すでしょうか。

おそらく、その存在自体を見ないようにしているのではないでしょうか。

つまり、「許す」とは、ただ、その存在を認めていればいい。

「認める」とはいっても、そこに感情的なイエスは必要はありません。

ただ、それが存在しているという事実だけを認めていればいい。

だから、何かを許そうとするときは、それを「好きになろう」とする必要はないと思っています。

「本心」がそれを「好きになろう」としていないのであれば、自分の心に無理にそうさせる必要があるでしょうか。

もし、何かを許そうとして、まだそれに対する嫌悪感が強くて心が抵抗するときは、私はまだ許そうとしなくていいと思っています。

それは、自分の心の中にある嫌悪感の存在を認めているということ。

つまり、自分の心の中にある嫌悪感を「許している」ということではないでしょうか。

「許す」ことは簡単ではないと思います。

昨日認められていた事実が、今日は受け入れられない。

そんな日だってあると思います。

何かを許そうと思ったら、何度も何度もその存在を認めようとする必要があるでしょう。

ですが、「好きにならなくていい」。
そう思えたら、「許す」ことのハードルがぐっと低くならないでしょうか?