「認める」ということ【洞察の詩】
僕は頻繁に、「認める」という言葉を用います。
それは、人間として健全に生きるうえで、この「認める」ということの重要性を体感してきたからです。
この言葉にあなたはどのような印象をお持ちでしょうか。
「認める」とは、困難なことでしょうか。
僕もかつては、難しい課題であると思っていました。
例えば、「彼の実力を認める」
この言葉をこのように使ったなら、どうでしょうか。
「積極的に肯定している」といった意味を含んでいるように感じるかもしれません。
その延長として、受け入れたくないものを「認めよう」としたらどうでしょうか。
それは場合によっては、自分の心に何かを強制するような重苦しさがあるかもしれません。
しかし僕は、今は「認める」の中にそのような意図的な要素を見出してはいません。
もしかすると、これから述べることは、「認める」の辞書的な意味とは異なるのかもしれません。
それでも僕は、瞑想の中で「認める」ということの真意をこのように感じ取ったのです。
「認める」とは、自然な注意を示す姿勢ではないでしょうか。
そこには積極性も消極性もありません。
それはただ、淡々としています。
対象を肯定も否定もしません。
なるべくそこに意味を加えません。
何かを理解しようとしたり、納得しようとはしません。
その詳細へのこだわりには注意を向けようとせず、その全体像が「在る」ことに意識を置きます。
一言で表すなら、「ただ、それが『在る』ということを知る」ということです。
これが正しいのか間違っているのか、僕にはわかりません。
しかし僕にはこれがしっくりくるのです。
これを「認める」という言葉で表すかどうかは別として、
この姿勢は、鍛錬としての瞑想であれ、生活の場であれ、あなたの気づきを助けることでしょう。
あなたが自分の内面を観察するとき。
あなたの心にある、あってはならないとして目を背けてきた、あなたの気質、考え、感情。
それらの細部に囚われることなく、それらの存在を知ることができるかもしれません。
そして、それらを許すことができるかもしれません。
「『認める』ことは癒しである」とは、そういうことなのです。