これは使い古された言葉かもしれませんが・・・
どんなものごとにも二面性が存在するのではないでしょうか。
日が射すところが存在すれば必ずどこかに日陰が存在する。
田舎が存在するからこそ都会が存在しうるし、
内向的な人が存在するからこそ、外交的な人が存在できるわけです。
劣っているとされる人がいるからこそ、優秀とされる人が存在できるのではないでしょうか。
仮にすべてが都会だとすれば、それらの都会の中で優劣をつけて、ここは栄えている、ここは寂れているという評価を下すでしょう。
仮にすべてが外交的な人であったとしても、それらの中で比較して、この人はフレンドリーだ、この人は大人しいと判断するでしょう。
仮にすべてが優秀な人の集まりであっても、その中でまた優劣を付けるでしょう。
(私が通った高校がまさにそうでした。)
結局、ほんとうの意味で人はものごとを「絶対評価」はできないのではないでしょうか。
私たちはこれまで、ものごとの二面性のうち、そのどちらかが正しい、そうでない方は間違っているとする二極思考に慣れ親しんできました。
その二極思考から脱しようとしないかぎり、渇望感から解脱することはできないのだと私は思うのです。
というのも、正しいと思うほうの極に達したところで、そのなかで正しさの優劣を競うレースが待っているからです。
だからといって、優劣なんて何の意味もないから競争なんてやめてしまいなさいという短絡的な話をしているわけではありません。
人間も生命である以上、何らかの形で生存競争をすることは生物としてある程度避けられない性だと私は思うからです。
また、どちらの極も好きになりなさいという綺麗ごとが言いたいわけでもありません。
自分がどちらの極が好きか、どちらの極が心地いいかという思考・感情はあっていいと思います。
しかし、私はこちらの極であるべき、だからもう一方の極は存在してはならないという二極的な考え方はきっと、自分自身を苦しめてしまうことになるでしょう。
どちらの極が好きでも嫌いでも(どちらでもなくても、どうでもよくても)いいのです。
それに対して素直になっていいと思います。
だからこそ、どちらの極も存在していいのではないでしょうか。
いえ、正しくは、あなたがどちらの極を好きであるか嫌いであるかにかかわらず、
どちらの極も存在しているのです。
(さらにいえば、どちらの極も存在していないともいえるのです。)
それだけはまぎれもない事実なのです。
納得しているか否かにかかわらず、そのことだけ知っていればいいのではないでしょうか。