本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

「達成すること」に執着する苦しみ

私たちは「達成すること」に価値を見出しがちです。

テストで高得点を取る。
試合に勝つ。
会社で出世する。

何か目標を立て、それに向かって努力をする。

これらは自分を高め、結果的に人の役に立つこともあり、尊い行動であると私も思います。

しかし、「達成すること」に執着してしまうと、現状に対する不満という苦しみが起こります。

私は今、太っている。
だからダイエットしたい。
太っている今の姿は私ではない。
というように。

たしかに太っていることで、その容姿をからかわれたこともあるかもしれません。

好きな人から振られてしまったこともあるかもしれません。

それは本当につらいことだと私も思います。

そんな自分を否定したくなる気持ち、とてもよく分かります。

しかし残念ながら、今の自分を否定する気持ちが強いと、どんなに達成しても不満が解消することはないかもしれません。

さきほどのダイエットの例えを用いてみます。

「太っている私は私じゃない!」

発奮してダイエットをして、見事成功したとしましょう。

すると次は、「この魅力的になった私で理想の彼氏をゲットしたい。」という欲が湧いてきます。

そこでまたあなたは自分を否定して努力をしてしまうでしょう。

「今の私の性格ではとてもそんな彼氏とお付き合いすることはできない。」

「もっと良い性格にならなくては!」

今度は性格まで改造しようとします。

そして努力が実り、見事彼氏をゲットできたとして・・・

今度はその彼氏を失う恐怖が湧いてくるでしょう。

おそらく、「ダイエットや性格の改造に成功した自分だから彼氏が付き合ってくれている。」という想いがどこかにあると思いますので、「元の体型や性格に戻ってはいけない。」という緊張感に見舞われるでしょう。

また、それ以外にも達成したいという欲が湧いてくるかもしれません。
(その彼氏と結婚したいとか、さらに自分を魅力的な人間に見せるために仕事に成功したいとか。)

こうして終わることのない「達成ゲーム」にどっぷりとハマることになるかもしれません。

なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。

それは、自分を否定する努力を続けるかぎり、自分の「足りないところ探し」がエスカレートするからです。

無事に「足りないところ」を補えたら今度は、それを失うことが怖くなる。

または、別の「足りないところ」を補うことでそれをカバーしようとする。

立ち止まると失うのではないか。

そうした脅迫的な思いから、常に何かに駆り立てられているような苦しさを感じてしまう。

「今の私ではない私にならなければ。」
結局これは、「別人」になろうとしていることではないでしょうか。

「別人」になれたとしても、今度は「私」であることが許せなくなってしまう。
自分が自分であることを自分に許さないこと。
これは地獄のような苦しみではないでしょうか。

「達成すること」をよしとしすぎる風潮は、このような不幸を産む危険性をはらんでいるのではないか。
私はそう思うのです。

もちろん、みんながみんなこのようになるわけではないでしょう。
ある程度達成したところで満足して、軌道修正できる人もいるかと思います。
しかし、自己否定が強い人は残念ながら、なかなかそうする勇気が持ちづらいものです。
(私もそうでしたからよくわかります。)

ここで誤解のないように注意していただきたいのは、達成することそのものが問題ではないということです。
努力の虚しさを説いているわけでもありません。
(生きている以上、何かしら努力は必要だと私は思っています。)

達成感は私たちに充実や喜びを与えてくれるものでもあります。
何かを達成するということは、人生のスパンの中でスパイスのようなメリハリになるでしょう。

ここで問題なのは、「達成すること」に執着しているということ。
つまり、達成していない状態の自分を否定してしまっているということ。

もちろん、苦しみを承知のうえで「別人」を目指し続ける人生を選ぶというのもひとつの生き方だと思います。

しかし、もしその生き方が苦しくてもうやめたいと思っているのであれば、「存在していること」をよしとする生き方を目指してみませんか?

(続く)