あなたは人から批判されても、平常心でいられるだろうか。
僕はやはり、批判をされることはとても嫌だ。
よくポジティブシンキングなどで、人の批判は自分が改善できるチャンスなので、ありがたく頂戴しようというような考えがある。
たしかに心からそう思えたら、建設的に人と関われるだろうと思う。
しかし、僕はそんなに「いい奴」にはなれそうもない。
批判する人を苦々しく思うし、強く批判されると逃げ出したくなる。
とても、「貴重な意見を下さりありがとうございます。」なんて思えそうもない。
口だけなら言えるかもしれない。
しかし、本心からそう言うことは、今の僕にはできそうもない。
だから、僕はこう考えている。
「批判は汚物だ」と。
日常生活において、誰でも体から汚物を排出することだろう。
だから、汚物自体は何も問題はない。
汚物を排出することは自然の摂理であり、責めに帰するようなことでもないだろう。
しかし、どこでも所構わず汚物を垂れ流したらどうだろう。
周りの人々は不快になって当然ではないだろうか。
批判ばかりしている人は、そういう行動を取っているのだと僕は捉えている。
自分の心の中というトイレだけでなく、公衆の面前で汚物を垂れ流し、あまつさえ、相手に汚物を塗りつけようとする。
もちろん批判は汚物だというたとえは僕の脳内世界のものなので、恐らくそういう人の大半は、自分の批判が汚物だとは思っていないだろうが。
では、そういう批判ばかりしている人に対し、どう接すればいいのだろうか。
復讐としてこちらも相手を批判すればいいだろうか。
それとも、あなたがその批判を真摯に受け取り、今後は批判を受けないように注意するのがいいだろうか。
模範解答のひとつとして、次のようなことが考えられる。
批判のうち、自分の行動を改善できる要素があれば、今後に活かす。
それが単なる感情的な暴言であれば、聞き流す。
たしかにこのように対処できたら、大抵の人間関係は円滑になりそうだ。
できそうなら、そうしてみるのもいいかもしれない。
しかし、そんな絵に描いたような理想的な対応が誰にでもできるなら、苦労はしないだろうと僕は思う。
僕は、一番大切なのは、その批判をいちいち受け取らないことだと思う。
わざわざあなたが汚物をもらってあげる必要はないのだ。
なるべく汚物に注目しない。
そうした姿勢が重要になる。
それでもやはり、批判に恐怖を感じ、批判そのものを避けたいという人もいるかと思う。
とてもよく分かる。
僕もそうだから。
でも批判そのものを避けてばかりいると、本当に自分がやりたいことをやる機会も逃すかもしれない。
だから自己啓発本などではよく、「批判を恐れるな」ということが言われるのだろう。
しかし、「批判を恐れない境地」に達するのはなかなか難しいのではないだろうか。
結果、批判を恐れてはいけないと考え、恐怖心を押し殺してますます苦しくなってしまうのだ。
それなら、批判を不快に感じることを、自分に許すところから始めてみてはどうだろうか。
不快に感じても当然なのだ。
だって、汚物なんだから。
だから批判に恐怖を感じていいのだ。
逃げ出したくて当然なのだ。
しかし、いくら汚物が不快でも、汚物を垂れ流す相手を正そうとしないことをおすすめする。
なぜなら、その試みはほとんどの場合において、好ましい結果は産まないだろうから。
あなたがどんなに理にかなった説得を試みたとしても、その人は恐らく行動を省みるどころか、あなたの説得に耳すら貸さないだろう。
それどころか、相手はさらに悪臭を放つ汚物をあなたに投げつけるかもしれない。
もし勇気があるなら、私はあなたの言葉で傷ついているのだということぐらいは伝えてもいいかもしれない。
しかし、そこで留めておいたほうがいいと僕は思う。
相手をコントロールしようとしないことをおすすめする。
そもそもあなたが自分が正しいと思って相手を咎めた時点で、あなたもまた、相手に汚物をなすりつけることになるのではないだろうか。
汚物と汚物のなすりつけ合いという不毛な争いは、なるべく避けたほうがいいのではないかと思う。
相手と同じ土俵に立たないことだ。
じゃあ僕らはどんなに怒りを感じても、批判という汚物を出さないほうがいいのだろうか。
批判したい衝動に駆られても、それを我慢したほうがいいのか。
僕は、排泄を我慢することは心身に有害であると思っている。
体から怒りという毒素を出すためにも、汚物は排出してしまったほうがいいのではないだろうか。
しかし、どこにでも垂れ流すわけではない。
自分の心の中というトイレや誰も見ていない部屋で、人知れず排出すればいいのだ。
もしくは、一人では処理しきれないときは、あなたの排泄物さえも受け入れてくれるような人、家族であったり親友であったり恋人であったり、そんな親密な人たちに話してみてはどうだろう。
そのときはなるべく、今日こんなことがあり、自分はこう感じたのだと、「私」を主語にした出来事として伝えるといいだろう。
すると、あなたの排泄物は、歴史的・客観的資料へと変身するだろう。
まるで遺跡で見つかった人糞の化石のように。