本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

「表現したい欲求」に対するブレーキ

僕は自分のなかにある「表現したい欲求」を長い間押し殺していたことに気がついた。

そして、その欲求と和解した。

すると今度は、僕にその欲求を押し殺させていた強い思い込みが表面化してきた。


「自分は無力である。」という思い込み

僕の心の根底には「自分は無力である。」という思い込みがあるのだろう。

この思い込みがいつはじまったのかはわからないし、今となってはそんなことを知る必要もないだろう。

この思い込みは払拭されないまま現在に至っている。



それはなぜだろうか。



僕はずっと、自分自身であることを否定して、別人になる努力をし続けてきた。

現代社会が求める「あるべき姿」に迎合するためだ。

自分自身の感じ方や考え方が「世間一般の価値観」と違っていたため、ずっと自分の感じ方や考え方を否定してきた。



そのように別人になる努力をしても、やはり世間が求めることを、求められるようにできているという感覚がなかった。

自分の能力が活かせていると感じることができなかった。



だから、「そのままの自分でいてもいい。」という気づきが、体感としてまだ定着していないのだろう。

今は、「本当にそのままの自分でいても大丈夫だろうか。」と不安なのだ。


「責任を負いたくない」という恐れ

この不安は、「責任を負いたくない」という恐れを生み出している。

現代社会においての「責任」という言葉は、僕にとっては脅迫である。



「失敗したら許さんぞ。」

「迷惑をかける人間は悪だ。」

「人を待たせてはいけない。」

「必ず我々が求める結果を出せ。」

「一度着手したことは投げ出すな。」



なんだか命令や禁止ばかりされているように感じるのだ。



「自分は無力である。」という思い込みがあれば、当然「そんなこと自分にできるはずがない。」という思いが沸いてくる。

「責任」という言葉はますます重苦しく窮屈なものと感じられるようになる。

そして行動することに委縮したり、行動することがおっくうになってしまうのだ。



つまり「自分は無力である。」という思い込みは、「表現したい欲求」に対するブレーキになっていたのだ。


「表現したい欲求」が作り出す焦り

当然のことながら、「自分は無力である。」という思い込みは不快である。

できるならそんな思い込みは早く手放してしまいたい。

「表現したい欲求」は長年、僕の心の奥深くにしまい込まれていた。

だから、この欲求には「このまま何もしなければ、また『自分は無力である。』という思い込みに支配されてしまうのではないか。」という不安がつきまとっているのだ。

その不安が、「早く何かをなさなくては。」という今の焦りにつながっているのだ。


思い込みや焦りを真に受けて同調しないこと

しかし、僕の態度ははっきりしていた。



これまでのように、「自分は無力である。」という思い込みを真に受けるつもりはない。

「無力ではないと思える自分になる」ために、がむしゃらに努力することはごめんだった。



また、「表現したい欲求」が作り出す焦りにも同調しない。

いくら自分が表現したいことのためであったとしても、自分のペースを貫く。

たとえ自分にとって望ましいことであっても、焦りに同調した行動は「達成ゲーム」に化けやすい。

そのことをこれまでの人生で嫌というほど味わったからだ。



今は苦しくてもいい。

少しずつでいい。

これからは「そのままの自分」を信じて、自分のスピードで生きていくのだ。



そのために今僕がする努力は、「無力である。」と感じる自分であっても、そのまま日々を過ごすことだ。



「早くしないと手遅れになるぞ。」という強迫が心に沸いても、それらを起こるまま・去るがままにすることである。



つまらない挑発に乗らないことだ。

もうこれ以上、別人になる努力はしない。

現代社会が煽り立てる「達成ゲーム」から僕は完全に降りたのだ。



これからは「そのままの自分」で、自分のスピードで、自分が信じることのために行動するのだ。



そのうちに思い込みや焦りが作り出す幻想の恐怖は消えていくだろう。

焦りよ、君の正体は?

ここ最近、僕の心に「焦り」が頻繁に沸いてきている。

こっちを向いてくれ、俺の言うとおりに動いてくれと僕を動かそうと必死だ。

彼の正体は、何だろうか。



それは、僕がずっと心の奥に押し込めてきた「表現したい欲求」だった。

「表現」といっても、何も文章を書いたり、絵を描いたりなどの創作活動だけを指しているわけではない。

もっと広い意味での「表現」だ。



それは、自分が価値を感じることのために、現在持っている能力を活かすことだ。

何も世間的に「すごい」といわれるような、大層なこととは限らない。

それは刃物職人にとっては、黙々と刃物を打ち、刃を研ぎ続けることかもしれない。

きれい好きな人であれば、自分の部屋を美しく保ち続けることかもしれない。

家事に喜びを見いだしている人であれば、日々の雑事を行うことかもしれない。
(雑事という表現すら失礼かもしれない。)

その「表現」の仕方は、人によって様々だろう。



長年、僕は社会の「あるべき姿」に合わせようと必死だった。

そうしないと生きていけないと思い込んでいたからだ。

そして、自分は取り立てて何もできないと信じ込んでいた。

だから「サラリーマンにしかなれない。」とサラリーマンになった。

しかし、なじめなかった。

これではいけないともがき続けた。

どんなに努力しても、どこか噛み合わないかんじがあった。

常にどこか、自分に嘘を付いているような違和感があった。

同僚との価値観も当然、合わなかった。

どうしても出世をしたいと思えないし、組織内の政治的な話も常にひとごとのようだった。

批判されるのが怖くて、出世や仕事に興味があるふりをしていた。

そして、そんな自分をずっと責め続けていた。

だから、社会人になって以降、「表現」しているという実感がまるで沸かなかった。

社会人としてやっていくうえで、自分を「表現したい」という欲求はじゃまでしかないと思っていたので、それをずっと押し殺していた。

押し殺していた期間が長すぎて、押し殺しているということすら忘れていた。



しかし、ようやく自分の「本質」はサラリーマンに向いていないということを、あるがままに受け入れられるようになってきた。

社会が求める「あるべき姿」という洗脳から脱しつつあるのだ。

すると、これまで押し殺してきた「表現したい」欲求が心の奥から顔を出してきたのだ。



よく、生きていてくれた。

長い間、暗くてせまいところに押し込めていてごめんよ。

長い間、無視しつづけていてごめんよ。

これからは僕といっしょに行こう。



僕はこの「表現したい欲求」と和解した。

そして彼が僕の心に存在することを認めた。

しかし、まだこの欲求は、強い恐れを伴っていた。

(続く)

半年ブログをやって気づいたこと

はてなブログから通知が届いた。

どうやらブログを開設して半年になるらしい。

そうか、もうそんなになるか。

そして、まだ半年しかたっていないのか。

半年間、僕はこのブログで自分が好きなことをつらつらと書いてきた。

「なるべく他を傷つけない。」
「なるべくわかりやすい文章にしたい。」
「なるべく自分が納得する文章を公開したい。」

これ以外に書くうえで気をつけていることは特にない。

ただ自分が思いついたことを書いているだけ。

ただ自分が言いたいことを書いているだけ。

当然、うまく書けたと思えた日もあれば、そうでない日もある。

特にアクセス数を増やすための工夫もしていない。

こんな「自分本位」なブログでも、来て、読んでくださっている人がいる。

ほんとうにありがたい話だ。

半年間マイペースに書き続けてきて、気がついた。

どうやら今の僕は、「自分が楽しむ」こと以外に、このブログに目的を持っていないようだ。

そして自分が楽しむ延長線上に、誰かがこの文章で何かを感じてくれたらいいかなと思っているようだ。

多くの方に読んでもらいたいとか、アクセス数を増やしたいとか、そういう欲はほんとうにないようだ。

そして、僕にはそういう姿勢が合っているのかもしれない。

誰もが人気ブロガーを目指しているというわけではないと思うので(笑)

こんなブログでも読んでくださっている方、ほんとうにありがとうございます。

いくらアクセス数にこだわっていないつもりでも、やはり読んでくれる人がいるといないとでぜんぜんモチベーションは違います。

あなたのおかげで続けられています。

今後も僕のペースでぼちぼちやっていきますので、よければお付き合いくださいませ。

そのままにしておくことも愛

現代社会的価値観では、現状を改善しようとすることが過剰によしとされている傾向にあると思います。

これを盲信すると、むやみやたらに周囲を思い通りにしようとして、いたずらに疲弊してしまいかねません。

また、周囲との軋轢も産むかもしれません。

もちろん現状を改善しようとすること自体が不要だとは思いません。

むしろ大切だと思っています。

しかし、現状を認識しないまま、むやみに変えようとすることは、自分も周囲も苦しめることになるかもしれません。

つまり、十分な現状認識が必要だと思うのです。

「十分な」とはどれぐらいでしょうか。

私は、それに正解はないと思っています。

あなたが不自然だと感じないタイミングです。

焦燥感や恐怖を押し殺して、無理矢理判断する段階ならば、まだ不自然かもしれません。

十分に現状を認識するまでは、ものごとを判断せず、そのままにしておこうとする姿勢。

むやみに行動することに慣れてきた私たちにとって、それは非常に忍耐がいることかもしれません。

しかし、このめまぐるしい現代において、こうした姿勢が有効なケースもあるのではないでしょうか。

自分の思い通りにしようとしないこと。

そして、そのままにしておこうとすること。

それは実は、ものごとのあるがままを認めようとする愛ある態度なのだと私は思っています。

心は理屈だけでは片付けられない

先日の夜、原因不明の強い恐怖心に憑りつかれました。

 

まったく心当たりがないのです。

 

その恐怖心を冷静に観察してみましたが、根底にある原因や思い込みが何なのかわかりませんでした。

 

その恐怖心は眠るまでずっと存在していました。

 

そして、次の朝目が覚めると、恐怖心は消えていました。

 

マインドフルネスによって心を冷静に観察する術を身につけても、やはりこういうことはあるのです。

 

当然、「冷静に観察ができる」というだけでも、感情に同調して取り乱す恐れが大幅に減るため、大きなアドバンテージなのですが。

 

やはり、心の問題は理屈だけでは片付けられないということなのでしょう。

 

今回の件で、心に関しては、「わかっていてもどうにもならないことがある。」ということを再確認しました。

 

・・・心以外のことでもそうなのかもしれませんが。

 

心の問題を解決するため、巷では数多くの理論やマニュアルが存在します。

 

それらのなかには自分に合った有益な情報もあり、それによって心の問題や生きづらさが大きく改善されたというケースもあるかと思います。

 

しかし、どんなに完成された理論やマニュアルも、それだけですべてがまかなえるということはなく、それらは補助にすぎないのではないか。

 

私はそう思っています。

 

そして、科学は万能ではありません。

 

もちろん、科学で証明されているものは、誰にでも同じ結果が出るという再現性が保証されていますから、それらには普遍性と客観性があります。

 

しかし、科学で証明されている事象というのは、この世の事象のうちのごくわずかではないでしょうか。

 

科学で証明されているということは、人に説明するうえで説得力を増しますので、重要なことだと思います。

 

しかし、科学で証明されていないことは存在しないという思いこみは、我々の内面の世界を狭いところに閉じ込めてしまいかねないのではないでしょうか。

 

我々が信じるかどうかにかかわらず、科学で証明されていない事象も、たしかにこの世には存在していると私は感じています。

 

というのも、私が自分の生きづらさや心の問題を改善する過程で、科学では説明がつかない不思議な体験をいくつも味わったからです。

 

マインドフルネスにしてもそうです。

 

まだまだ科学では判明していない部分が数多くあるそうですが、たしかに私には非常に大きな効果がありました。

 

心療内科での診察や投薬ではまったく効果が感じられなかったにもかかわらずです。

 

だから、巷にある理論やマニュアルにしても同じです。

 

それらを実践したけどうまくいかず、心の問題が解決しなかったという場合であっても、何も恥じる必要はないと思うのです。

 

それは数ある方法のうちのひとつにすぎないからです。

 

ほかにもあなたに合った方法はきっとあるはずです。

 

いかに忍耐強く自分自身と向き合い、自分に合ったやり方を見つけて実践し、解決・改善していくか。

 

これが心の問題に対処する最も有効な方法だと私は思うのです。

感性で生きる

私はかつて、思考で生きていました。

 

論理的に考えること。

 

それのみが良いことだと信じていたのです。

 

というよりも、それしか方法を知らなかったのです。

 

たしかに論理的思考も大切だと思います。

 

他者にものごとを説明するうえで、論理的であるということは、説得力を増すからです。

 

しかし残念ながら、私はどうやら思考が苦手なようです。

 

「べき思考」が強いため、思考に頼ると「こうあるべきだ。」と考えてしまう傾向があるようなのです。

 

だから考えることが苦痛でした。

 

しかし、ほかに方法を知らないから、苦しくても思考を使い続けました。

 

自分で苦しみを作り出し、そのなかに自分で飛び込んでいたのです。

 

マインドフルネスは、私に感性を活用することの大切さを教えてくれました。

 

思考は人間に備わったすばらしい能力であることは私も認めるところです。

 

思考を適度に使うことができれば、それは私たちにとって有効な道具になるでしょう。

 

しかし、現代は思考優位の傾向が強いように感じます。

 

過度に「思考を使わなければならない。」とか、「論理的に考えなければならない。」と思ってしまったら、かつての私のように、かえって自分の考えに縛られることになってしまうかもしれません。

 

私は感性を活用することを知り、実はそれほど考えなくてもよいということを体感しました。

 

考えるよりも感じるに任せるほうが、選択にも迷いが少ないうえに、かえって考えすぎによる失敗が減ったように思います。

 

もちろんこれは誰にでも当てはまることではないでしょう。

 

決して感覚を使うことがいいことで、思考は悪いことだということが言いたいわけではありません。

 

私は思考と感覚に優劣があるわけではないと思っています。

 

これは持論ですが、人には思考優位と感覚優位のタイプがあるように思います。

 

どちらか片方しか使えないということではなく、どちらを使うほうが得意かということです。

 

自分に見合ったバランスで、思考と感覚を使い分けていくことが重要ではないでしょうか。

 

そのためには、自分の特性を知る必要があるでしょう。

 

私の場合、現在、感性7・思考3くらいの比率がしっくりきています。

 

もし、思考しすぎて苦しいなら、試しに少し自分の感性に身を任せてみてもいいのかもしれませんね。

one of them

私はかつて、自分の価値観の外側に世界はないものと思い込んでいました。

 

つまり、自分が「goodだ」「OKだ」と思ったもののほかは、その存在を認めていませんでした。

 

では、当時の私の価値観とは何だったのでしょうか。

 

それは私自身の価値観というより、世間が求める「こうあるべきだ。」でした。

 

それは本当に私自身が信じたかったものではありませんでした。

 

そう信じていないと生きていけないという思い込みによるものでした。

 

本当はそうは思いたくないものも多分に含まれていたにもかかわらず、いやいやそれに従っていました。

 

しかし私は、マインドフルネスを通じて、これらの思い込みが本当かどうか、もういちど観察してみることにしました。

 

評価を加えず、ただ淡々と「それは本当か」と自分に問い続けました。

 

静かに座し、自分自身に意識を置きます。

 

それはつらい作業になるときもありました。

 

「観る」だけでも怖い、目をそむけたくなるようなものもありました。

 

それでも続けました。

 

それは、私のなかに強い違和感があったからにほかなりません。

 

世間で盲目的に信じられていることに対して。

 

もう何も疑問を持たずに従い続けることは無理だ。

 

心の奥底から起こる意志が、自然と私にこの作業を継続させていました。

 

「世間の価値観が信じるに値するものかどうか、知ってどうなるというのだ?」

 

「仮に信じるに値しないものだったらどうするのだ?」

 

「もしそうだったとして、そこから離れて生きていけると思っているのか?」

 

自分の心が妨害的な想念を作り出すこともありましたが、それらも併せて、評価せず観察し続けました。

 

すると少しずつ、わかってきました。

 

世間の価値観は、ひとつの「集合」にすぎないこと。

 

真の意味で、そこに「正しい」も「間違っている」もないこと。

 

しかし大勢はまだそれを「正しい」と信じている(もしくは信じているふりをしている)ということ。

 

そして、その「集合」の外側にも果てしなく世界は広がっていること。

 

自分がその結果さえ負えるならば、どの世界で生きるかを選ぶこともできるのだということ。

 

また、私が自分の価値観を大切に感じているのと同様、人もまた自分の価値観が大切なのだということ。

 

つまり、世間の価値観にとらわれる必要はないということです。

 

また、世間の価値観を頭ごなしに否定するのも違うのでしょう。

 

私は、価値観というものは、生きるうえでの道具にすぎないと思っています。

 

だから、それがどんなに自分にとって大事でも、その考えだけがすべてではないはずです。

 

それを大事にすることは実りある人生の一条件だと思いますが、それに固執する必要はまったくないでしょう。

 

だから、自分の価値観のうち、もう必要がなくなった部分や現状と合わない部分があることに気が付いたら、その部分を手放せばいいのです。

 

そして、ほかにしっくりくる価値観があるなら、それを採用すればいいのです。

 

もちろん、それは簡単な作業ではないかもしれませんが。

 

私たちが選択するものは、この果てしない世界のなかのほんの一部です。

 

つまり、生きる上で選択するものはすべて、「one of them」なのです。