本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

リラクゼーションの基礎は「評価をしない」こと

マインドフルネスの基本的姿勢のひとつに「評価をしない」ことがあります。

 

私はこの姿勢が、リラクゼーションの基礎となると思っています。

 

リラックスをしようとすると緊張してしまう人は、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

私もかつてはそうでした。

 

この緊張は何に対するものでしょうか。

 

それは、リラックスを阻もうとする思考や感情に対して、生じるものではないでしょうか。

 

つまり、それらの思考や感情が起こらないように警戒してこわばっているのです。

 

そしてこのように警戒するほど、かえってこれらの思考や感情に過剰に注意が向き、よけいにリラックスできなくなるという悪循環が起こるのです。

 

(これを「森田療法」では「精神交互作用」といいます。)

 

リラックスしようとするなら、これらの感情や思考を起こるままにさせ、それらを「手放す」のが有効なのです。

 

しかし、言うほど簡単ではないかもしれません。

 

本当にリラックスを必要としているような緊張傾向の人は、これらの思考や感情を警戒したり、攻撃したりすることに慣れてしまっているからです。

 

いきなり感情や思考を手放そうとすると、今度はそれらを無理矢理引きはがそうと格闘してしまうかもしれません。

 

だからまずはこれらの思考や感情に対して「評価をしない」練習からはじめてみてはどうでしょうか。

 

※※参考記事『感情に対して「評価をしない」』

 

これらの思考や感情は、自然と起こってしまうものなのです。

 

だから、あなたに止めることはできないでしょう。

 

そして、これらはコントロールしようとすればするほど強くなる傾向にあります。

 

つまり、これらの思考や感情は起こって当然のものなのです。

 

起こる思考や感情は何も「悪くない」のです。

 

ならば、起こった思考や感情を、試しにそのまま味わってみるのです。

 

少しずつでかまいません。

 

大きくも小さくもしようとせず、ただそのまま。

 

はじめはなかなかうまくいかないかもしれません。

 

いつもの癖で、起こった思考や感情を攻撃してしまうかもしれません。

 

不快さに耐えられなくて、それらを払いのけてしまうかもしれません。

 

しかし、それでいいのです。

 

決して無理をしないことです。

 

忍耐強く継続すれば、少しずつ「評価をしない」という姿勢が身につくでしょう。

 

私は「評価をしない」ということに触れないまま、やみくもにリラックスをさせるようなワークは、歩き方も教えずに走らせようとするようなものだと思っています。

 

そのようなワークでリラックスできなかったからといって、何も自分を責める必要はありません。

 

まずは歩き方から習得すればいいのです。

ただ「生きるため」に生きる

私はかつて、何かを「得るため」に生きてきた。

何かを得た先にゴールのようなものがあり、そこにたどりつけば楽園のような場所がある。

そう信じていた。



しかし、得ようとして努力をすればするほど、満たされなかった。

たしかにその過程で得たものはたくさんあった。

実際、高学歴も安定した職も得た。

にもかかわらず、やはり満たされなかった。

常に生きづらかった。



得ようとする心の裏側には「足りない」という心が存在している。

だから、得ようとすればするほど、「足りない」に焦点が当たるのだろう。

そのため、どれだけ得ても「足りない」のだ。



本当に「足りない」のだろうか。

いったい何が「足りない」のだ?

それは自分の欲望から起こる「これも欲しい、あれも欲しい」に対して足りないのだ。



じゃあ、その欲望が叶ったら満足するか?

いや、きっと満たされないだろう。

なぜなら、その欲望が叶っても、また新たな足りないところ探しが始まるからだ。

その結果、新たな欲望が生じるだろう。

今度はさらに強大なものとなって。



もうこんな不毛なレースはやめないか?

「足りない」といいながら、私はちゃんと生きているじゃないか。



実は「足りない」は自分が比較により作り出した想念だった。

自分を何かと比較しつづけるかぎり、いつまで経っても「足りない」ことは当然だった。

そのような比較に意味を感じなくなったとき、じゅうぶんに「足りている」ことに気が付いた。

私以外の誰が何と言おうと、私が足りていると思えばそれで「足りている」のだ。

だからもう、得たくもないものを「得るため」に、やりたくもないレースに参加するような生き方はやめることを決意した。



そして、ただ、「生きるため」に生きることにした。

何かを「得る」ことではなく、「存在している」ことに意識を向けることにした。



人の役に立っているかどうかとか、社会に貢献できるかどうかとか、そんなことは二の次、三の次でいい。

ただ、生きる。

貢献しようと気張らなくたって、生きていれば自然と、誰かの・何かの役には立っているだろうから。



しかし、せっかく生きるなら、なるべく心地よく生きる。

そして、たった一度きりの人生なら、本心が望むように生きる。



私はそう誓った。

「好き」と才能

前回、「仕事」とは何かの記事で、「仕事」という言葉の意味について、私なりの意見を述べました。

私は、現代社会は必要以上に「好きなこと」をすることに対して罪悪感を持っているように思うのです。

趣味と仕事を分離することに、あまりにも神経質になりすぎている傾向があるように思います。

楽しいという感情を抑圧しすぎていないでしょうか。

お金を稼げることが仕事で、それ以外は趣味。

仕事は大事にしなければならない。
趣味を優先させてはならない。

そんな価値観が蔓延しているように感じます。

それがお金になるとか人の役に立つとか、たしかに気になることかもしれません。

しかし、そういうことを抜きにして、ただ好きなことを続けていく先に、自分の才能が見えてくるのではないでしょうか。

私はそう思っています。

「でも今からじゃ、はじめるのが遅すぎる・・・。」

私はそれも気にする必要はないと思います。

いわゆる「正攻法」でプロとしてお金を稼ぐだけが自己表現ではないはずです。

ただ何となく好きで続けていく先に、プロとしてお金を稼ぐ以外にも表現する手段は見つかるかもしれません。

(もちろん、プロとして稼げるかもしれませんし。)

直接的にその「好きなこと」を生業にできなかったとしても、それに関連した職業には就けるかもしれません。

もしくは、そのスキルを別の職種で活かすこともできるかもしれません。

こだわりに執着しなければ、才能を活かす方法はいくらでもあるはずです。

才能を見つけたいなら、ただ「好き」かどうか。
これだけが物差しでいいと思います。

たとえば、本屋に行ったらいつのまにか自然と、同じようなジャンルの書棚に行っていたとか、そんなところにヒントがあるかもしれません。

得意・不得意で選ばないことをおすすめします。

これで選んでしまうと、「人と比べて上手いか下手か」という、不自由な競争原理に巻き込まれるでしょう。

頭で考えて理屈付けをした「好き」ではなく、理由がないけど自分の内側から起こる、何となく「好き」という感覚。

激情というよりは、静かな情熱といいましょうか。

そんな気持ちでなんとなく続けてきていること。

それこそがあなたが才能を発揮する「仕事」なのかもしれません。

それはもしかしたら、まだあなた自身がそう気付いていないものかもしれません。

そして、あなたにとっては特別なことではないかもしれません。

「仕事」とは何か

世間一般に「仕事」というと、報酬を得るための「労働」のことを指していると思います。

 

私も長らくそう思っていました。

 

せっかくやるなら好きなこと「仕事」にしたい。

 

でも、金にならなければ「仕事」じゃない。

 

人の役に立たなければ「仕事」じゃない。

 

だから、好きなことなんて「仕事」にできない。

 

そう決め付けていました。

 

しかし今、私はこの見解は違っていたと思っています。

 

好きなこと = 「仕事」 ではないか。

 

今はそう思っています。

 

しかし、誤解のないようにしていただきたいことがあります。

 

決して私は、好きなことを生業として生計を立てましょうということが言いたいわけではないのです。

 

結果的にそうなる可能性はじゅうぶんにあります。

 

しかし、順番が逆なのです。

 

私は「仕事」とは、世間一般で言われているような定義と違うものではないかと思っているのです。

 

それは、生計が立てられるかどうかは関係ないと思っていますし、必ずしも労働の形式をとっているともかぎらないと思っています。

 

私たちそれぞれになかば習性として備わっている、理屈抜きに好きで、長年継続してやっている習慣。

 

いわゆる「ライスワーク」ではなく「ライフワーク」です。

 

これこそが本来の、私たち固有の「仕事」ではないかと思うのです。

 

私の場合、現在、生業としてサラリーマンをしています。

 

しかしこれは生活のためと割り切って行っている「ライスワーク」です。

 

これとは別に、心理学や哲学を勉強したり、瞑想をしたりと、生き方を探求しています。

 

また、各地を旅して地域の雰囲気、風土、歴史、文化に触れ、自分の感性を磨いています。

 

これには現在、何も報酬は発生していません。

 

正直いって、人の役に立っているかどうかもわかりません。

 

世間一般の枠組みでいけば、単なる趣味かもしれません。

 

しかし、私にとってはそんなことはどうでもよく、ずっと好きで続けていることです。

 

ここに理屈はありません。

 

金になろうがなるまいが、人の役に立とうが立つまいが、おそらくこの先もずっとこれをやり続けるでしょう。

 

だから、私はサラリーマンを自分の「仕事」だとは思っていません。

(だからといって、いいかげんに働いているつもりはありませんが。)

 

私にとって、生き方を探求したり、各地を旅することが「ライフワーク」であり、「仕事」なのです。

 

そして私は焦らずとも、ときが来れば、いずれこれらが結びつき、何かを産むものと信じています。

 

これは無理に信じようと自分に言い聞かせているのではなく、なかば確信として自然と沸き上がってくる想念です。

 

ただ好きでなんとなく続けていること。

 

それを人がどう評価しているかは脇に置いていい。

 

それは決して大層なものでなくてもいいと思います。

 

次回はこの「仕事」におおいに関係する「才能」についてお話したいと思います。

 

(続く)

「手放す」とは

このブログでもよく使っている表現かと思いますし、心理読み物などにもよく登場する「手放す」という言葉について、その体感を言葉で説明したいと思います。

 

私もこの感覚を体得するのは苦労したものですから。

 

執着を「手放す」とか、ある感情を「手放す」とかいうふうに使いますよね。

 

まず、誤解のないようにしていただきたいのは、「手放す」とは対象を自分から無理矢理引きはがして投げ捨てるというようなことではありません。

 

そのような乱暴な扱いのことは指していません。

 

むしろ、もっと優しく自然に接するかんじです。

 

ではどのように接するのでしょうか。

 

「手放す」とは、対象をコントロールしようとしないことです。

 

つまり、対象を自分の思い通りにしようとしないこと。

 

こう書くと、じゃあその対象に無関心にならなければいけないのかと思う方もいるかもしれません。

 

決してそういうことではありません。

 

それに対して無関心を装いましょうとか、気にしてはいけないということではありません。

 

むしろあなたはそれに対して執着をしているから、それを自分の思い通りにしようとしてしまうのでしょう。

 

だから、気になって当然ではないでしょうか。

 

ならば、大いに気にすればいいのではないのでしょうか。

 

しかし、気になりながらも、対象のコントロールをやめていく。

 

コントロールをやめるということに意識が向きすぎて、コントロール「してはいけない」という心が起こったなら、自分がコントロールしようとしていることに気が付くだけでもいい。

 

簡単ではないかもしれませんが、楽に生きたいと願うなら、ぜひ、この「手放す」という感覚を体感していただければと思います。

判断しない

前回の記事、「気付くだけでいい」の続きです。

 

さて、やらなくていいことをやめるにあたり、どのようにして「やらなくていい」と決めればよいのでしょうか。

 

その判断基準は何でしょうか。

 

実は、判断しなくてよいのです。

 

判断をせず、あなたの「感じ方」に任せ、そのままにしておけばいいのです。

 

???決めるのに判断しなくていい???

 

これまで何かと決断することに慣れてきた人には、所在なく気持ち悪いかもしれません。

 

自分にとって「必要」か「不要」か、どちらかにすぱっと決めてしまいたいかもしれません。

 

しかし、そんなことをする必要はないのです。

 

むしろ、無理に決めてしまおうとすることは逆効果でしょう。

 

ものごとを評価も判断もせず、ただ湧き上がってくる心に意識を置く。

 

そうすれば、「やらなくていいこと」が自然と見えてくるでしょう。

 

このように、マインドフルネスでは、ものごとを判断しようとしません。

 

その代わりに現在の自分の心に意識を置きます。

 

すると自然とものごとは進みだすのです。

 

この感覚は体得するまで練習が必要かもしれません。

 

しかし、体得できたなら、選択で迷ったり後悔したりということは格段に減るでしょう。

 

「やらなくていいことをやめる。」と決めたなら、あとはこのように意識を自分の心に置き続けるだけで、自然に「やらなければならない」という義務感に振り回される機会は減ってくるでしょう。

ただ気付くだけでいい

前回の記事、「やらなくていいことをやめていく」の続きです。

 

さて、この「やらなければならない」という義務感は誰が作っているのでしょうか。

 

それは、私たちが自分で作っているのです。

 

ただ、ここで早まらないでいただきたい。

 

自分で作っているとはいえ、思考や意志の力で消そうと思ってすぐに消せるものではないでしょう。

 

むしろ、むりやり消そうとすると自分の心から手痛い抵抗を受けるでしょう。

 

では、どうすればいいのでしょうか。

 

この義務感の裏には、「こうあるべきだ」という強い思い込みがあるはずです。

 

私はこういう人間であるべきだ。

他者はこうあるべきだ。

私を取り巻く現実はこうあるべきだ。

 

それらに気付くことです。

 

そしてそれらを変えようとしないことです。

 

変えようとすると、攻撃を受けます。

 

だから、ただ気付くだけでいいのです。

 

とはいえ、それは決して簡単なことではないでしょう。

 

これらの思い込みはたいていの場合、強い恐怖心を伴っているからです。

 

だから変えようとしなくても、観察するだけで不快感を伴うことがあるかもしれません。

 

それでも忍耐強く、気付き続けるのです。

 

思い込みの鎖を少しずつ丁寧にほどくかのように、何度も何度も。

 

すると、あなたは少しずつ義務感から解放されていくことでしょう。

 

もしかするとこれは気の遠くなるような作業かもしれません。

 

しかし、この努力は必ずやあなたに希望を与えるでしょう。

 

では次に、「やらなくていいこと」はどのようにして決めればいいのでしょうか。

 

次回はそれをお話ししようと思います。

 

(続く)