しばらく心理や瞑想に関する記事を投稿していませんでしたので、久しぶりに・・・
一応こちらがこのブログの本分ですからね(笑)
メンタルヘルスにおいて、「共感力」が重要であることは、様々な心理の専門家も述べていることと思います。
僕もご多分に漏れず、それに同意見です。
「共感」とは、相手の立場や考えを理解しようとする態度で、「共感力」とはその度合いです。
「共感力」は、アドラー心理学で「共同体感覚」と呼ばれるものとほぼ同義で、これが高いと他者の異なる価値観を受け入れやすくなります。
「共同体感覚」に興味がある方は、ネットなどでお調べいただければと思います。
僕の言葉で「共感力」を簡単に説明すると・・・
「自分とは異質の存在に対する許容量」といったかんじでしょうか。
異質の存在と一言で表しましたが、これは自分と違う考えや価値観の人々と言い換えても差し支えはないでしょう。
どうでしょう?
こう聞いて、簡単だと思いましたか?
正直、僕にはとても難しいことのように感じてしまいます。
しかし、ここで僕が強調したいのは、「許容」というものをなるべく簡単に捉えてみましょうということです。
手放しで100%相手に身を委ねなくては、なんて身構えなくていいのです。
許容するうえでポイントとなるのは、
(1)対象の好き嫌いは問わない。
(2)とりあえず存在を許容すればよい。
ということです。
ポイント(1) 対象の好き嫌いは問わない。
自分とは異質の存在を許容するとはいっても、それを好きになる必要はありません。
もちろん、好きであるに越したことはないのですが・・・
嫌いなら嫌いで構わないのです。
無理に好きになろうとしなくていいのです。
そんな努力、キツいでしょう?
好き嫌いが問題の本質ではないのですから。
ポイント(2) とりあえず存在を許容すればよい。
仮に嫌いだったとしても、存在だけは認める必要があります。
存在の排除は、いわゆる「仲間外れ」というやつで、意図的にこれを行うと「共感」からはかけ離れてしまうこととなります。
存在を認めるとは・・・
私は彼が嫌いだ。
しかし、存在ぐらいはしてもいいよね。
とりあえずこんなかんじでいいのではないでしょうか。
もし、まだ存在してもいいと認められないなら、存在しているという事実を認めるところから始めてもいいでしょう。
私は彼が嫌いだ。
しかし、彼は実際、存在している。
嫌だけど。
・・・まずはここからです。
今はそれさえも認められないとしても、自分を責める必要はありません。
許しているかどうかというのは、結果としての状態です。
今、「許していない」という状態をすぐに「許している」という状態に変えることはできないのです。
人の心はオセロゲームの白黒のように、簡単にひっくり返せるものではないのです。
ですが、時が来れば、きっと受け入れられることでしょう。
それまでは、受け入れられないという事実を受け入れてみましょう。
受け入れられない自分を許してあげましょう。
これは僕の持論ですが、「共感力」は体の硬さと同じように、生まれ持った個人差が如実に出るものと思います。
体が柔らかいほうがケガしにくいのと同じで、「共感力」が高いほうが何かと生きやすくはあるでしょう。
巷の心理読み物などを読めば、皆が皆、努力をすれば同じように「共感力」の高い人間になれると感じるかもしれません。
しかし、実際のところは、同じストレッチをしても180度開脚できる人もいれば、50度くらいまでが限界の人もいます。
だから、他の人は受け入れられていることであっても、自分には許せないということは、十分あり得ることです。
180度開脚できる人が50度まで開脚できる人よりも人間的に優れているなどということはありません。
だから、何も恥じる必要はありません。
少しずつ、自分のペースで「共感力」を高めていけばいいのではないでしょうか。
「共感力」は日常生活の中で高めることが可能です。
それは、特別なトレーニングをしなければいけないというわけではありません。
皆さんが日頃やっていることを、やや意識して行えばいいのです。
それは何か・・・
次回、お話ししたいと思います。