志
「正義」
この言葉に対して各人が感じる意味や、心に抱く印象は様々だと思います。
皆さんがこの言葉をどのようなニュアンスで使われているのか、僕にはわかりません。
しかし僕は、現代で使われる正義という言葉に対して、懐疑的な印象を抱いています。
なぜならそこに、ある種の押しつけがましさや自己陶酔を感じるからです。
正義という名の束縛
もし正義が、自分たちの「正しさ」をむやみに主張するものであるなら、そこには「正しくない」と自分たちが判断したもの、すなわち、自分たちの考えと異なるものを裁こうとする意図が見え隠れするかもしれません。
もしくは、自分の「正しさ」を押し売りし、その正義に賛同しない者まで巻き込もうとするかもしれません。
結局それは、「かくあるべし」の押しつけになるのではないかと僕は思うのです。
「正しさ」とは、事実に対して我々がくだす評価ではないでしょうか。
それは考えであり、自我の世界です。
いわば幻だと僕は思っています。
極端な例に聞こえたら大変申し訳ないのですが、ナチスドイツのホロコーストですら、当時のドイツでは正義だったのではないでしょうか。
正義とは、その程度の確かさではないのでしょうか。
我々が心に抱く正義がそれと同じだとは言いません。
しかし、どんなに高尚なものであれ、どんなに理に適ったものであれ、正義を振りかざし、そうでないと判断したものを攻撃・糾弾するなら、もしくは賛同しない者にまでその正義を強要しようとするなら、程度の差こそあれ、方向性としては独裁者が唱える正義と同種ではないかと僕は思うのです。
それは正義という名の束縛ではないでしょうか。
自己完結の正義
ならば正義などないほうがいいのでしょうか。
僕は、正義を心に抱くことそのものが有害だとは思いません。
もし僕たちが真の自分自身として、独立自尊の道を歩もうと考えるなら、大切なことは、その正義が自己完結であることではないでしょうか。
つまり、他者がその正義に対してどうであるかとかは、究極的にどうでもいいということです。
これは何も、他者を害しても構わないのであなたの正義を貫き通しなさいという意味ではありません。
それは自己完結ではなく、独りよがりです。
自己完結とは、なるべく他者を害さない・巻き込まないという姿勢です。
(協力を依頼することと巻き込むことはまったく違います。)
つまり、賛同しない人がいたとしても、そのままにしておくということです。
志
もし、そのような態度で心に抱くことができるなら、僕はそれを正義という言葉では呼ばないでしょう。
それは正義ではなく、「志」ではないでしょうか。
それはきっと、自分の内から自然に湧き起こるものであり、考えを超えていることでしょう。
そこには押しつけがましさも陶酔もありません。
ただ、自分がそちらの方向に進みたいから進んでいる。
他者との競争も自己アピールも、そこには存在しない。
そしてそれは、自分の本心からの望みである。
「志」にもとづいて生きるならきっと、無理に人を巻き込もうとしなくても、賛同者は現れることでしょう。
あなたの姿を見て、「志」が近しい人が、自然にあなたに協力してくれることでしょう。
それこそが「同志」ではないでしょうか。
そこには打算も上下関係もないはずです。
なぜならその動機は、「正しさ」という幻想ではないからです。
自分にとって信じられること、すなわち、自分にとっての「真実」だからです。
補足
持論として述べますが、仮にあなたが「志」を抱いていなくても、そのことを嘆く必要はまったくないと思います。
僕は「志」は、あってもなくてもいいと思っています。
「志」をことさらに特別視することもまた、むしろ害なのではないかと感じています。
真に尊いのは立派な目標ではなく、「生きること」そのものではないでしょうか。
究極的には、「生きること」に誠実であればそれで充分であり、「志」はオマケにすぎないのではないでしょうか。
(ここでいう「誠実」とは、あなたにとっての意味合いで構いません。)
「志」を見つけようと努力しなくても大丈夫です。
時がきたなら、あなたにもきっと、「志」は自然と見えてくるはずです。