本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

考えを正す必要はない

皆さんは自分の考えのうち、自分にとって都合が悪いと思うものを正そうとして、それらと闘った経験はありませんか。

しかし、瞑想を実践すると、そうした関わり方は非建設的であることに気づくでしょう。

自動的に起こる思考は、議会の野次と同じようなものです。

それが起こることも、その内容も、実は自分でコントロールすることはできないのです。

巷のポジティブシンキングの書籍などを読むと、あたかも思考は自由自在に操れるかのように感じるかもしれません。

しかし僕は、思考と感情は基本的に直接コントロールできないものと捉えています。



議会でも野次を黙らせて議事を進めることが非効率的であるように、僕たちも思考をいちいち止めようとしなくていいのです。

思考が起こったら、それらを止めようとしたり、内容を書き換えようとするかわりに、呼吸や体の一部など、自分にとって意識を置きやすいものに注意を向けます。

今まで思考と格闘することが癖になっている人であれば、そう簡単にはいかないかもしれません。

つい思考に引き込まれることがしばしばあると思います。

特定の思考に注意が固着することもあるでしょう。

しかし、それは誰にでも起こり得ることなので、何も問題はありません。

そんなときは思考から意識をリリースする練習も必要かもしれません。

※この意識のリリースについては、機会があれば述べようと思います。



このように忍耐強く実践すれば、思考を単なる心の出来事と捉えられる機会が少しずつ増えてくるでしょう。

まるで、議会で野次に動じずに堂々と発言する議員のように、思考に囚われる機会も減ることでしょう。

そして、このような関わり方を続けていくと、思考もまた、僕たちに対して少しずつ態度を和らげることでしょう。

しんどさは人それぞれ

あなたは自分がしんどいとき、そのしんどさに疑いや後ろめたさを感じることはないでしょうか。

 

たとえば、職場で同僚が忙しく仕事をしているときに、疲れやストレスでしんどくなってきた。

 

そんな中でも職場の同僚たちは、特に疲れなどを訴えずに、てきぱきと仕事をしています。

 

 

そんなとき、自分のしんどさは単なる妄想なのではないだろうかと、疑念が湧いてくるかもしれません。

 

もしくは、みんなしんどい中を我慢して一生懸命仕事をしているのに、自分だけがしんどいと思うなんて、甘えではないだろうかと自分を責めるかもしれません。

 

そして、もっと自分も頑張らなきゃいけない、と自分に鞭を打ってむやみに努力するかもしれません。

 

 

僕はあなたにはっきりと言うでしょう。

 

あなたは自分のしんどさに自責の念を感じる必要はありません。

 

 

下の記事でもお伝えしているように、「感じ方」は千差万別なのです。

 

つまり、同じ刺激に対する不快感は、人によって感じる強さが違って当然なのです。

 

もしかしたら、同僚は我慢しているのではなく、本当にしんどくないのかもしれません。

 

 

hamamon91.hatenablog.com

 

 

そして、既に我が身に起こった感覚(ここでは疲労感)は、コントロールをすることはできないのです。

 

考え方や根性論で多少感じないふりをすることはできるかもしれませんが、根本からの不快感を消し去ることはできないのです。

 

 

だから、自分のしんどさと人のしんどさを比べる意味はまったくないのだと僕は思っています。

 

 

もしかしたら、あなたはかつて、自分のしんどさを人に訴えたときに、

 

「お前だけがしんどいわけじゃない。」

 

「みんなもしんどいのだからお前も我慢しろ。」

 

などと言われたのかもしれません。

 

 

比べる意味のないものを比較し、それによって人を咎める。

 

果たしてそのような意見に同調する必要が本当にあるでしょうか。

 

 

しかし、ひとつ注意していただきたいことがあります。

 

たしかにあなたのしんどさは何も悪いことではないと僕は思います。

 

ですが、それとは関わりなく、周囲の人たちはあなたのそのしんどさを理解できないかもしれません。

 

なぜ理解してくれないのだと、あなたは不満を感じるかもしれません。

 

残念ながら、好むと好まざるとに関わらず、これは致し方ないことなのです。

 

そして大抵の場合、誰にも悪意のないことなのです。

 

なぜなら、他者にはあなたの「感じ方」が分からないからです。

 

多少は推測することができたとしても、あなたそのものとして、その刺激を感じることはできないのです。

 

同様に、あなたもまた、他者の「感じ方」をそのまま体験することはできないのです。

 

つまり、お互い様ということです。

 

 

ならば、あなただけは、あなたのそのしんどさを理解してあげてもいいのかもしれません。

 

もちろん、抵抗が働いて、自分でもすぐに受け入れることはできないかもしれません。

 

今はそれでいいのです。

 

それでも、自分は今しんどいのだという「感じ方」の事実だけでも認めるようにすれば、少しは楽になるのではないでしょうか。

 

 

「存在」こそ私たちの正体

私たちは何者だろうか。


私たちの正体は何だろうか。





体だろうか?


心だろうか?


私たちの名前だろうか?




それとも、私たちに付いた肩書だろうか?


私たちが成し遂げた業績だろうか?


周囲の人たちが、私たちに抱く人物イメージだろうか?





私たちの正体は何か?


恐らくこの問いに対して、科学的に証明した解答を得ることはできないだろう。


しかし僕は、これまでの人生経験とマインドフルネスの洞察で、ひとつの仮説を信じるに至った。





私たちの正体は、私たちの「存在」だ。


「存在」こそ、私たちの正体なのだ。





だから僕は思う。


肩書も、


業績も、


所有資産も、


たしかに関心事かもしれない。





しかし、それらは私たちの「存在」の前には、ほんのオマケに過ぎないと。


私たちの「存在」こそ尊いのだと。





これを綺麗事だと思うならそれでいい。


そう感じる人がいても、何も不思議ではない。


これは真理ではなく、僕の経験から得られた信念だから。





人それぞれ歩んできた歴史は違う。


だから、人それぞれ信じるものも違って当然だろう。


あなたはあなたの感じるままを信じればよいのだ。




関連記事
hamamon91.hatenablog.com

感じないものを「感じない」と認めること

先日、ある人とお話をして、はっと気づくことがありました。

その方はかつて、摂食障害があったとのことで、以前は味覚を感じられなかったとか。

食べてもおいしいとも不味いとも感じなかったそうです。


僕は生まれてからずっと食欲旺盛で、味覚を感じないという状態になったことはないのですが、恐らく本人も辛かっただろうと想像します。

実は僕も、味覚ではないのですが、「感じない」ことで苦しんでいた経験があります。

詳細はちょっとここでは語れませんが(笑)



このブログでは、快を快と、不快を不快と認めること、つまり「感じるままを認めること」の大切さはよくお伝えしていました。

しかし、そのように「感じる」ことができなくて苦しんでいる人もいるのだということを忘れていたようです。

ここでひとつ、「感じない」方のために付け加えたいと思います。



それは、感じないものを「感じない」と認めることも、同じように重要だということです。

なぜかといいますと、これは僕の経験則でもありますし、さきほどの摂食障害を経験された方も言っておられたのですが、「感じる」ためにはリラックスが必要ではないかと思うのです。

もしそこに、「私はこれを感じて当然だ。」という思い込みがあれば、「感じない」ことに対して「感じなければ」というプレッシャーが起こるでしょう。

すると、ますますリラックスが難しくなり、感じにくくなってしまいます。



果たして本当に、「感じない」ことは異常なのでしょうか。

みんながみんな、同じ刺激に対して同じように感じられて当たり前なのでしょうか。


実際のところ、「感じ方」というのは人によって千差万別ではないでしょうか。

もちろんそのときの心身の調子に左右されることもあるでしょう。

つまり、「感じ方」に正解はなく、あなたの「感じ方」は、そのときのあなたにとっての事実なのです。

ほかの人が「感じる」ことでも、自分には「感じない」ということは、十分あり得ることです。

実は「こう感じるべき」という感覚はないのです。



だから、もし何も感じないのであれば、まずは「感じない」ということを認めてみてはどうでしょうか。

もちろんここで様々な思考や感情が起こるのも無理はないと思います。

なぜ自分はこれが感じられないのだと焦ることもあるでしょう。

でもそれでいいのです。

その思考や感情が起こることもまた、今のあなたにとっての事実なのです。

それを押し殺す必要はないのです。



ある程度抵抗なく、感じないものを「感じない」と認められるようになると、「感じない」ことに対して、それほど否定的な思いはなくなるかもしれません。

もしくは、少しずつそれが感じられるようになるかもしれません。



ジョン・カバットジン博士が提唱する「マインドフルネスストレス低減法」において、「ボディスキャン」というワークが、まさにこの練習にうってつけでしょう。

つまり、あなたのあるがままの「感じ方」を認めるためのトレーニングといえます。

「感じない」ことで悩んでいない場合でも、リラックスすることが苦手という人には有効だと思います。

忍耐強く行えば、あなたの感受性は磨かれることでしょう。


チャクラワーク in 岐阜ヨガの家

先日、「岐阜ヨガの家」でチャクラワークを受講しました。

僕は関西に在住しているのですが、以前から何かと縁がある岐阜県で、これまた縁があって、チャクラについて学ばせていただく運びとなりました。

僕は岐阜に招かれているのか!?



f:id:hamamon91:20200107215306j:plain
はるばる(とも思わないが)岐阜へ到着〜


f:id:hamamon91:20200107214803j:plain
岐阜駅前の広場には黄金の信長公像がある!



さて、皆さんはチャクラをご存知でしょうか。

ここで簡単に説明しますと・・・

チャクラとは、ヨガなどで見られる東洋的な生命概念で、僕たちの体に存在すると言われるエネルギーセンターです。

その数は全部で数百から数千と、諸説あるようです。

主要なものは体の脊柱線に沿って、会陰から頭頂部まで7つあると言われています。

(これも、6つや8つなど諸説あるようです。)

一般的にチャクラと言われるものは、この主要な7つのチャクラを指しています。

しかし、エネルギーセンターとはいっても、心身の調子だけに影響するものではなく、そこから副次的に人生全体のバランスに関わってくるもののようです。

まあ何と言いますか、言葉だけでは表しづらい奥深さや曖昧さがあり、このあたりが神秘的であり、また、人によっては受け入れがたいところなのでしょう。




チャクラは東洋医学の氣などと同様、広く認知はされているものの、科学的には証明されていません。

しかし、最近ではクリスティン・ペイジ氏のように、西洋医学の医師の中にも、チャクラの概念を採り入れている方がいるようです。

また、近年の医療の流れとして、西洋医学東洋医学を融合し、人間を人体というパーツとしてではなく、体・心・氣等の総合体として捉える「ホリスティック医学」が注目されるようになりました。



僕も、自身の経験から、ホリスティックな健康観や生命観に立って健康管理をするようになりました。

と言いますのも・・・

僕は長らく、西洋医学では原因の分からない倦怠感や疲労感等の不調に苦しんでいました。

原因は何だろうと検査を受けても、数値的には全く異常がない健康体でした。

そして、食事・運動・睡眠等の生活習慣を整えても、それらは改善することはありませんでした。

そうしたことから、西洋医学のみによる健康維持に限界を感じ、健康を考えていくうえで東洋医学的なアプローチも必要ではないかと思うようになったのです。



僕は以前から、チャクラというものに興味がありました。

しかし、その存在には半信半疑でした。

マインドフルネス瞑想を実践するようになり、気づきが深まるにつれ、「これはチャクラかな?」と思うものを感じるようになりました。

また、瞑想によって自身の不調や生きづらさが和らぐとともに、その過程で神秘的な体験もしました。

僕は、科学的に証明されていないものの中にも、真実は多くあるに違いないと確信しました。

チャクラはあるのではないか。

そして、これを学べば健康について、いや、生命についてもっと深く理解できるだろう。

そう感じたのです。

こうした経緯から、チャクラワークを受講することとなったのです。



長くなりました。

本題に移りましょう。

このワークは第1チャクラから第4チャクラまで、各チャクラについて1回ずつ受講します。

各回について、受講後は約3週間の宿題があります。

この宿題までこなせば、無事修了というわけです。

実は第1チャクラは昨年の11月に受講・12月に修了済です。

第1チャクラを修了した時点で、体の中で停滞していたエネルギーが循環したような、自分の中に今まで感じたことのないようなパワフルさを感じる機会が出てくるようになりました。

もちろん、チャクラワークも魔法ではないでしょう。

僕の場合、日頃から自分で取り組んでいるマインドフルネスとの相乗効果で、このような結果になったのかもしれません。



そして、今回は第2チャクラの受講です。

西川朋子先生の指導のもと、約4時間半じっくりと学びました。

第2チャクラは主に感情を司るチャクラです。

体のワークは、骨盤を自由に動かすワークと、月礼拝です。

実は、ここに来る3日ほど前に、ユーチューブの動画を見ながらヨガの月礼拝のポーズをやろうとしていたのです。

しかし、動画の展開が早すぎて、ついていけませんでした。

だから、月礼拝のポーズを教えてもらいたいと思っていたのです。

シンクロニシティでしょうか。

第1チャクラがどっしり力強く、直線的な動きだったのに対し、第2チャクラは柔軟で曲線的な印象です。

心のワークは、感情観察です。

自分の感情を観察し、そのまま感じてみるというものです。

これは、僕が普段からマインドフルネスの実践で行っているものとほぼ同じ内容です。

心の抵抗によってそれ以上感じることができなかった感情を、観察することで恐怖を解きほぐし、少しずつ感じられるようになっていくことを目指します。

つまり、心の抵抗を少しずつ外し、その可動域を拡げていくということでしょうか。

第2チャクラのワークは心身ともに、柔軟性がキーワードなのだと感じました。



今回も3週間の宿題をいただきました。

楽しく励みたいと思います。

西川先生、長時間のご指導、ありがとうございました。



f:id:hamamon91:20200108073538j:plain


岐阜ヨガの家のブログ
https://ameblo.jp/yogajupiter/

調子には波があって当然

昨日できたことが、なぜか今日はできない。

そんなことはよくあるのではないでしょうか。

そんなとき、私たちの多くは恐らく、なぜできないんだと嫌な気分になるのではないでしょうか。

そして、できない自分が受け入れられない人もいるかもしれません。



「以前できたことは、今もできて当然だ。」

そういった思い込みを持っている方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。



しかし、実際のところはどうでしょうか。

私たちの気分や行動は、そのときの調子や状況など、様々な要因の影響を受けます。

そして、以前と今とでは、何寸分なく同じ状態など、実際にはないと言っていいのではないでしょうか。



仮に昨日と同じ場所で、同じ時刻に、同じことを同じメンバーで行ったとしても、各人の調子はもちろんのこと、気温・湿度・気圧・風速・天体の配置など、様々な状況は今と異なっているはずです。

つまり、以前と今は全く違うものなのです。

今このときと全く同じ状況など存在しないのです。

以前のあなたと今のあなたは、全く違う状態のもとでそれを行うのです。

だから、以前できたことが今はできないということは、十分にあり得ることだと言えるでしょう。



しかし、ことメンタルの状態に関しては、常にフラットに保てると考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

巷の心理読み物などを読むと、そのように感じても無理はないかと思います。



心は常にポジティブに保てる。

いつでも冷静でいられる。

心とはそうあるべきだ。

・・・そのように信じている人もいるかもしれません。




しかし、実際のところはどうでしょう。

好調なときは、いい気分やポジティブな思考になりやすいかと思います。

一方、不調のときは、特に差し迫った問題がなくても憂鬱な気分になったり、普段気にならないようなことに対して悲しくなったり腹立たしくなったりするかもしれません。

しかし、それでいいのだと僕は思っています。

それが心の自然な動きではないかと思うのです。



僕は「常にフラットな心」が絶対に無理とまで言い切るつもりはありません。

そのような境地に達することを生きがいとし、修行を重ねている人もいると思います。

本心からそうなりたい人は、大いに目指せばいいと思います。



しかし、そのような境地に達しないと心の平穏が訪れないのではないかと恐怖に囚われてしまっているのなら、僕はあなたに言うでしょう。

そんな幻想は手放してしまっていい。

そんな状態にならなくても十分、心身とも健康に生きていくことができるはずです。



メンタルが不調になると、つい不安になり、心そのものをどうにかコントロールしようとしてしまうかもしれません。

もちろんそれも、ひとつの方法かもしれません。

しかし、僕はそれよりも、そうした心の動きがある中で、それらに囚われずにどのように行動するか。

そのほうが重要ではないかと思うのです。




生命はリズムのなかで流れ、動いています。

調子には波があって当然なのです。

もちろん、鬱や極度の疲労などの状態異常があれば、平常時に比べて波の上限と下限の差が激しくなったり、波の間隔が短くなるなど、その波形が乱れることはあるかと思います。

しかし、健康な状態であっても、不調の波は訪れるものです。

それが自然の摂理というものではないでしょうか。

だから、以前できたことが今はできないということがあったら、嫌な気持ちになることも含めて、そうなることはやむを得ないのだと認めてしまったほうが楽だと僕は思います。



好調であれば幸せ。

不調であれば不幸。

そう感じることもあるかもしれません。

しかし僕は強く思います。

好・不調と僕たちの幸福とは別問題ではないかと。

素直であること

素直であることは、心身の健康上望ましい状態である。

ここでいう素直とは、人の言動に対して従順であることではない。

自分の感情をできるだけそのまま認めることである。



つまり、快なものは快、不快なものは不快、どちらでもないものはどちらでもないと認めることである。

自分にとって都合が悪い感情であっても、できる限り違う感情に置き換えないことだ。

そして、できればその大きさも変えようとしないほうがいい。

なるべく、払いのけようとしたり、無理に大きくしようとしたり、感じないようにしないことだ。

しかし、どうかむやみな努力はしないでいただきたい。



自分の感情に評価を加えず観察し続ける。

評価をしたときは、評価をしたことに気づき、また観察を続ける。

忍耐強く、少しずつ。



するとあなたは気づくだろう。

自分の感情のとおりに行動する必要も、自分の感情をあるべき状態に変えようとする必要もないということを。

今、同調したくない感情が現れたら、それらを抑えることなく、自分の脇に流せるということを。

これが素直になるということだと、僕は思っている。