本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

自分を愛する

人が愛せなくて苦しいのは、自分を愛していないからなのかもしれません。

 

人を愛するには、まず自分を愛する必要があるでしょう。

 

自分を愛するという言葉は、どうも敬遠されがちなように思います。

 

それはたぶん、自分を愛することとナルシシスト(不健全な自己愛)が混同されているからではないでしょうか。

 

本当は、それらは全く違うものだというのに。

 

むしろナルシシストは、自分を愛していないから自己中心的になってしまうのです。

 

  

他者貢献よりも先に自分を癒す

 

他者貢献は崇高な精神であると信じられ、世間でも推奨されているものと思います。

 

たしかにそれが幸福の一要因であることは、僕も疑う余地はありません。

 

しかし、もしその言葉がまだ重荷に感じられるのなら、無理にそうしようとしなくていいのではないでしょうか。

 

もしかしたら、あなたは人の役に立とうとするよりも先に、自分を癒すことが必要なのかもしれません。

 

自分が辛いのに、それを無視して人のために尽くそうとするから、ますます人が恨めしくなるのかもしれません。

 

ある程度あなたの傷が癒えたら、おのずと人に何かをしてあげたくなるでしょう。

 

だからまずは、徹底的に自分を癒してあげましょう。

 

 

とかくこの日本では、自分をいたわることに対して遠慮しすぎだと感じます。

 

もっと自分を大切にしてもいいのです。

 

 

 

理想の逝き方

僕には理想の死に方があります。

このような話をすると引いてしまう人がいるかもしれませんが、もし興味が持てそうなら、お聞きいただけるとありがたい。


僕はこの世に生まれた以上、いずれ訪れる死の恐怖を受け入れることが、生命の務めであると思っています。

なので、なるべく死というものから目を逸さないでいたい。

死など怖くないと強がるのではなく、怖くて当然なのだと認めたい。


今生のゴールとして死について考えるということは、有意義なことではないかと思うのです。

そうすることは、一度きりの今生を大切に生きることにつながるのではないでしょうか。


死について考えるといっても、最近ブームの「終活」とは違います。

葬式や遺産なども大事かもしれませんが、そういったことではなく、死そのものについて考えるということです。


僕の理想の死に方。

それは、「枯れるように死ぬ」ということです。


どこかが特に病んでいるということはなく、自然に力尽きて亡くなるというかんじです。

緩やかなデクレジェンドのように弱っていき、最期は一人で、またはごく近しい人だけに看取られて、自室で静かに事切れたい。

なるべくなら、ボケたり寝たきりになったりしないで。

餓死によらない即身仏といったところでしょうか。


そのために僕は、今出来うる努力をしています。

やはり足腰は大事だと思いますので、よく歩くようにしています。

また、歯槽膿漏と肥満は万病のもとなので、食事などの生活習慣にも気を配っています。

もちろん理想の死を迎えるために、かえって生きることが苦しくなっては本末転倒なので、「ユルい」努力を心がけていますが。

こうした姿勢は、僕の生活を張り合いのある豊かなものにしてくれています。


あなたも理想の死について考えてみてはどうでしょうか。

理想の逝き方は、理想の生き方につながるのかもしれません。


hamamon91.hatenablog.com

考えを正す必要はない

皆さんは自分の考えのうち、自分にとって都合が悪いと思うものを正そうとして、それらと闘った経験はありませんか。

しかし、瞑想を実践すると、そうした関わり方は非建設的であることに気づくでしょう。

自動的に起こる思考は、議会の野次と同じようなものです。

それが起こることも、その内容も、実は自分でコントロールすることはできないのです。

巷のポジティブシンキングの書籍などを読むと、あたかも思考は自由自在に操れるかのように感じるかもしれません。

しかし僕は、思考と感情は基本的に直接コントロールできないものと捉えています。



議会でも野次を黙らせて議事を進めることが非効率的であるように、僕たちも思考をいちいち止めようとしなくていいのです。

思考が起こったら、それらを止めようとしたり、内容を書き換えようとするかわりに、呼吸や体の一部など、自分にとって意識を置きやすいものに注意を向けます。

今まで思考と格闘することが癖になっている人であれば、そう簡単にはいかないかもしれません。

つい思考に引き込まれることがしばしばあると思います。

特定の思考に注意が固着することもあるでしょう。

しかし、それは誰にでも起こり得ることなので、何も問題はありません。

そんなときは思考から意識をリリースする練習も必要かもしれません。

※この意識のリリースについては、機会があれば述べようと思います。



このように忍耐強く実践すれば、思考を単なる心の出来事と捉えられる機会が少しずつ増えてくるでしょう。

まるで、議会で野次に動じずに堂々と発言する議員のように、思考に囚われる機会も減ることでしょう。

そして、このような関わり方を続けていくと、思考もまた、僕たちに対して少しずつ態度を和らげることでしょう。

しんどさは人それぞれ

あなたは自分がしんどいとき、そのしんどさに疑いや後ろめたさを感じることはないでしょうか。

 

たとえば、職場で同僚が忙しく仕事をしているときに、疲れやストレスでしんどくなってきた。

 

そんな中でも職場の同僚たちは、特に疲れなどを訴えずに、てきぱきと仕事をしています。

 

 

そんなとき、自分のしんどさは単なる妄想なのではないだろうかと、疑念が湧いてくるかもしれません。

 

もしくは、みんなしんどい中を我慢して一生懸命仕事をしているのに、自分だけがしんどいと思うなんて、甘えではないだろうかと自分を責めるかもしれません。

 

そして、もっと自分も頑張らなきゃいけない、と自分に鞭を打ってむやみに努力するかもしれません。

 

 

僕はあなたにはっきりと言うでしょう。

 

あなたは自分のしんどさに自責の念を感じる必要はありません。

 

 

下の記事でもお伝えしているように、「感じ方」は千差万別なのです。

 

つまり、同じ刺激に対する不快感は、人によって感じる強さが違って当然なのです。

 

もしかしたら、同僚は我慢しているのではなく、本当にしんどくないのかもしれません。

 

 

hamamon91.hatenablog.com

 

 

そして、既に我が身に起こった感覚(ここでは疲労感)は、コントロールをすることはできないのです。

 

考え方や根性論で多少感じないふりをすることはできるかもしれませんが、根本からの不快感を消し去ることはできないのです。

 

 

だから、自分のしんどさと人のしんどさを比べる意味はまったくないのだと僕は思っています。

 

 

もしかしたら、あなたはかつて、自分のしんどさを人に訴えたときに、

 

「お前だけがしんどいわけじゃない。」

 

「みんなもしんどいのだからお前も我慢しろ。」

 

などと言われたのかもしれません。

 

 

比べる意味のないものを比較し、それによって人を咎める。

 

果たしてそのような意見に同調する必要が本当にあるでしょうか。

 

 

しかし、ひとつ注意していただきたいことがあります。

 

たしかにあなたのしんどさは何も悪いことではないと僕は思います。

 

ですが、それとは関わりなく、周囲の人たちはあなたのそのしんどさを理解できないかもしれません。

 

なぜ理解してくれないのだと、あなたは不満を感じるかもしれません。

 

残念ながら、好むと好まざるとに関わらず、これは致し方ないことなのです。

 

そして大抵の場合、誰にも悪意のないことなのです。

 

なぜなら、他者にはあなたの「感じ方」が分からないからです。

 

多少は推測することができたとしても、あなたそのものとして、その刺激を感じることはできないのです。

 

同様に、あなたもまた、他者の「感じ方」をそのまま体験することはできないのです。

 

つまり、お互い様ということです。

 

 

ならば、あなただけは、あなたのそのしんどさを理解してあげてもいいのかもしれません。

 

もちろん、抵抗が働いて、自分でもすぐに受け入れることはできないかもしれません。

 

今はそれでいいのです。

 

それでも、自分は今しんどいのだという「感じ方」の事実だけでも認めるようにすれば、少しは楽になるのではないでしょうか。

 

 

「存在」こそ私たちの正体

私たちは何者だろうか。


私たちの正体は何だろうか。





体だろうか?


心だろうか?


私たちの名前だろうか?




それとも、私たちに付いた肩書だろうか?


私たちが成し遂げた業績だろうか?


周囲の人たちが、私たちに抱く人物イメージだろうか?





私たちの正体は何か?


恐らくこの問いに対して、科学的に証明した解答を得ることはできないだろう。


しかし僕は、これまでの人生経験とマインドフルネスの洞察で、ひとつの仮説を信じるに至った。





私たちの正体は、私たちの「存在」だ。


「存在」こそ、私たちの正体なのだ。





だから僕は思う。


肩書も、


業績も、


所有資産も、


たしかに関心事かもしれない。





しかし、それらは私たちの「存在」の前には、ほんのオマケに過ぎないと。


私たちの「存在」こそ尊いのだと。





これを綺麗事だと思うならそれでいい。


そう感じる人がいても、何も不思議ではない。


これは真理ではなく、僕の経験から得られた信念だから。





人それぞれ歩んできた歴史は違う。


だから、人それぞれ信じるものも違って当然だろう。


あなたはあなたの感じるままを信じればよいのだ。




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感じないものを「感じない」と認めること

先日、ある人とお話をして、はっと気づくことがありました。

その方はかつて、摂食障害があったとのことで、以前は味覚を感じられなかったとか。

食べてもおいしいとも不味いとも感じなかったそうです。


僕は生まれてからずっと食欲旺盛で、味覚を感じないという状態になったことはないのですが、恐らく本人も辛かっただろうと想像します。

実は僕も、味覚ではないのですが、「感じない」ことで苦しんでいた経験があります。

詳細はちょっとここでは語れませんが(笑)



このブログでは、快を快と、不快を不快と認めること、つまり「感じるままを認めること」の大切さはよくお伝えしていました。

しかし、そのように「感じる」ことができなくて苦しんでいる人もいるのだということを忘れていたようです。

ここでひとつ、「感じない」方のために付け加えたいと思います。



それは、感じないものを「感じない」と認めることも、同じように重要だということです。

なぜかといいますと、これは僕の経験則でもありますし、さきほどの摂食障害を経験された方も言っておられたのですが、「感じる」ためにはリラックスが必要ではないかと思うのです。

もしそこに、「私はこれを感じて当然だ。」という思い込みがあれば、「感じない」ことに対して「感じなければ」というプレッシャーが起こるでしょう。

すると、ますますリラックスが難しくなり、感じにくくなってしまいます。



果たして本当に、「感じない」ことは異常なのでしょうか。

みんながみんな、同じ刺激に対して同じように感じられて当たり前なのでしょうか。


実際のところ、「感じ方」というのは人によって千差万別ではないでしょうか。

もちろんそのときの心身の調子に左右されることもあるでしょう。

つまり、「感じ方」に正解はなく、あなたの「感じ方」は、そのときのあなたにとっての事実なのです。

ほかの人が「感じる」ことでも、自分には「感じない」ということは、十分あり得ることです。

実は「こう感じるべき」という感覚はないのです。



だから、もし何も感じないのであれば、まずは「感じない」ということを認めてみてはどうでしょうか。

もちろんここで様々な思考や感情が起こるのも無理はないと思います。

なぜ自分はこれが感じられないのだと焦ることもあるでしょう。

でもそれでいいのです。

その思考や感情が起こることもまた、今のあなたにとっての事実なのです。

それを押し殺す必要はないのです。



ある程度抵抗なく、感じないものを「感じない」と認められるようになると、「感じない」ことに対して、それほど否定的な思いはなくなるかもしれません。

もしくは、少しずつそれが感じられるようになるかもしれません。



ジョン・カバットジン博士が提唱する「マインドフルネスストレス低減法」において、「ボディスキャン」というワークが、まさにこの練習にうってつけでしょう。

つまり、あなたのあるがままの「感じ方」を認めるためのトレーニングといえます。

「感じない」ことで悩んでいない場合でも、リラックスすることが苦手という人には有効だと思います。

忍耐強く行えば、あなたの感受性は磨かれることでしょう。


チャクラワーク in 岐阜ヨガの家

先日、「岐阜ヨガの家」でチャクラワークを受講しました。

僕は関西に在住しているのですが、以前から何かと縁がある岐阜県で、これまた縁があって、チャクラについて学ばせていただく運びとなりました。

僕は岐阜に招かれているのか!?



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はるばる(とも思わないが)岐阜へ到着〜


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岐阜駅前の広場には黄金の信長公像がある!



さて、皆さんはチャクラをご存知でしょうか。

ここで簡単に説明しますと・・・

チャクラとは、ヨガなどで見られる東洋的な生命概念で、僕たちの体に存在すると言われるエネルギーセンターです。

その数は全部で数百から数千と、諸説あるようです。

主要なものは体の脊柱線に沿って、会陰から頭頂部まで7つあると言われています。

(これも、6つや8つなど諸説あるようです。)

一般的にチャクラと言われるものは、この主要な7つのチャクラを指しています。

しかし、エネルギーセンターとはいっても、心身の調子だけに影響するものではなく、そこから副次的に人生全体のバランスに関わってくるもののようです。

まあ何と言いますか、言葉だけでは表しづらい奥深さや曖昧さがあり、このあたりが神秘的であり、また、人によっては受け入れがたいところなのでしょう。




チャクラは東洋医学の氣などと同様、広く認知はされているものの、科学的には証明されていません。

しかし、最近ではクリスティン・ペイジ氏のように、西洋医学の医師の中にも、チャクラの概念を採り入れている方がいるようです。

また、近年の医療の流れとして、西洋医学東洋医学を融合し、人間を人体というパーツとしてではなく、体・心・氣等の総合体として捉える「ホリスティック医学」が注目されるようになりました。



僕も、自身の経験から、ホリスティックな健康観や生命観に立って健康管理をするようになりました。

と言いますのも・・・

僕は長らく、西洋医学では原因の分からない倦怠感や疲労感等の不調に苦しんでいました。

原因は何だろうと検査を受けても、数値的には全く異常がない健康体でした。

そして、食事・運動・睡眠等の生活習慣を整えても、それらは改善することはありませんでした。

そうしたことから、西洋医学のみによる健康維持に限界を感じ、健康を考えていくうえで東洋医学的なアプローチも必要ではないかと思うようになったのです。



僕は以前から、チャクラというものに興味がありました。

しかし、その存在には半信半疑でした。

マインドフルネス瞑想を実践するようになり、気づきが深まるにつれ、「これはチャクラかな?」と思うものを感じるようになりました。

また、瞑想によって自身の不調や生きづらさが和らぐとともに、その過程で神秘的な体験もしました。

僕は、科学的に証明されていないものの中にも、真実は多くあるに違いないと確信しました。

チャクラはあるのではないか。

そして、これを学べば健康について、いや、生命についてもっと深く理解できるだろう。

そう感じたのです。

こうした経緯から、チャクラワークを受講することとなったのです。



長くなりました。

本題に移りましょう。

このワークは第1チャクラから第4チャクラまで、各チャクラについて1回ずつ受講します。

各回について、受講後は約3週間の宿題があります。

この宿題までこなせば、無事修了というわけです。

実は第1チャクラは昨年の11月に受講・12月に修了済です。

第1チャクラを修了した時点で、体の中で停滞していたエネルギーが循環したような、自分の中に今まで感じたことのないようなパワフルさを感じる機会が出てくるようになりました。

もちろん、チャクラワークも魔法ではないでしょう。

僕の場合、日頃から自分で取り組んでいるマインドフルネスとの相乗効果で、このような結果になったのかもしれません。



そして、今回は第2チャクラの受講です。

西川朋子先生の指導のもと、約4時間半じっくりと学びました。

第2チャクラは主に感情を司るチャクラです。

体のワークは、骨盤を自由に動かすワークと、月礼拝です。

実は、ここに来る3日ほど前に、ユーチューブの動画を見ながらヨガの月礼拝のポーズをやろうとしていたのです。

しかし、動画の展開が早すぎて、ついていけませんでした。

だから、月礼拝のポーズを教えてもらいたいと思っていたのです。

シンクロニシティでしょうか。

第1チャクラがどっしり力強く、直線的な動きだったのに対し、第2チャクラは柔軟で曲線的な印象です。

心のワークは、感情観察です。

自分の感情を観察し、そのまま感じてみるというものです。

これは、僕が普段からマインドフルネスの実践で行っているものとほぼ同じ内容です。

心の抵抗によってそれ以上感じることができなかった感情を、観察することで恐怖を解きほぐし、少しずつ感じられるようになっていくことを目指します。

つまり、心の抵抗を少しずつ外し、その可動域を拡げていくということでしょうか。

第2チャクラのワークは心身ともに、柔軟性がキーワードなのだと感じました。



今回も3週間の宿題をいただきました。

楽しく励みたいと思います。

西川先生、長時間のご指導、ありがとうございました。



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岐阜ヨガの家のブログ
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