本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

調子には波があって当然

昨日できたことが、なぜか今日はできない。

そんなことはよくあるのではないでしょうか。

そんなとき、私たちの多くは恐らく、なぜできないんだと嫌な気分になるのではないでしょうか。

そして、できない自分が受け入れられない人もいるかもしれません。



「以前できたことは、今もできて当然だ。」

そういった思い込みを持っている方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。



しかし、実際のところはどうでしょうか。

私たちの気分や行動は、そのときの調子や状況など、様々な要因の影響を受けます。

そして、以前と今とでは、何寸分なく同じ状態など、実際にはないと言っていいのではないでしょうか。



仮に昨日と同じ場所で、同じ時刻に、同じことを同じメンバーで行ったとしても、各人の調子はもちろんのこと、気温・湿度・気圧・風速・天体の配置など、様々な状況は今と異なっているはずです。

つまり、以前と今は全く違うものなのです。

今このときと全く同じ状況など存在しないのです。

以前のあなたと今のあなたは、全く違う状態のもとでそれを行うのです。

だから、以前できたことが今はできないということは、十分にあり得ることだと言えるでしょう。



しかし、ことメンタルの状態に関しては、常にフラットに保てると考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

巷の心理読み物などを読むと、そのように感じても無理はないかと思います。



心は常にポジティブに保てる。

いつでも冷静でいられる。

心とはそうあるべきだ。

・・・そのように信じている人もいるかもしれません。




しかし、実際のところはどうでしょう。

好調なときは、いい気分やポジティブな思考になりやすいかと思います。

一方、不調のときは、特に差し迫った問題がなくても憂鬱な気分になったり、普段気にならないようなことに対して悲しくなったり腹立たしくなったりするかもしれません。

しかし、それでいいのだと僕は思っています。

それが心の自然な動きではないかと思うのです。



僕は「常にフラットな心」が絶対に無理とまで言い切るつもりはありません。

そのような境地に達することを生きがいとし、修行を重ねている人もいると思います。

本心からそうなりたい人は、大いに目指せばいいと思います。



しかし、そのような境地に達しないと心の平穏が訪れないのではないかと恐怖に囚われてしまっているのなら、僕はあなたに言うでしょう。

そんな幻想は手放してしまっていい。

そんな状態にならなくても十分、心身とも健康に生きていくことができるはずです。



メンタルが不調になると、つい不安になり、心そのものをどうにかコントロールしようとしてしまうかもしれません。

もちろんそれも、ひとつの方法かもしれません。

しかし、僕はそれよりも、そうした心の動きがある中で、それらに囚われずにどのように行動するか。

そのほうが重要ではないかと思うのです。




生命はリズムのなかで流れ、動いています。

調子には波があって当然なのです。

もちろん、鬱や極度の疲労などの状態異常があれば、平常時に比べて波の上限と下限の差が激しくなったり、波の間隔が短くなるなど、その波形が乱れることはあるかと思います。

しかし、健康な状態であっても、不調の波は訪れるものです。

それが自然の摂理というものではないでしょうか。

だから、以前できたことが今はできないということがあったら、嫌な気持ちになることも含めて、そうなることはやむを得ないのだと認めてしまったほうが楽だと僕は思います。



好調であれば幸せ。

不調であれば不幸。

そう感じることもあるかもしれません。

しかし僕は強く思います。

好・不調と僕たちの幸福とは別問題ではないかと。

素直であること

素直であることは、心身の健康上望ましい状態である。

ここでいう素直とは、人の言動に対して従順であることではない。

自分の感情をできるだけそのまま認めることである。



つまり、快なものは快、不快なものは不快、どちらでもないものはどちらでもないと認めることである。

自分にとって都合が悪い感情であっても、できる限り違う感情に置き換えないことだ。

そして、できればその大きさも変えようとしないほうがいい。

なるべく、払いのけようとしたり、無理に大きくしようとしたり、感じないようにしないことだ。

しかし、どうかむやみな努力はしないでいただきたい。



自分の感情に評価を加えず観察し続ける。

評価をしたときは、評価をしたことに気づき、また観察を続ける。

忍耐強く、少しずつ。



するとあなたは気づくだろう。

自分の感情のとおりに行動する必要も、自分の感情をあるべき状態に変えようとする必要もないということを。

今、同調したくない感情が現れたら、それらを抑えることなく、自分の脇に流せるということを。

これが素直になるということだと、僕は思っている。

批判は汚物だ

あなたは人から批判されても、平常心でいられるだろうか。

僕はやはり、批判をされることはとても嫌だ。



よくポジティブシンキングなどで、人の批判は自分が改善できるチャンスなので、ありがたく頂戴しようというような考えがある。

たしかに心からそう思えたら、建設的に人と関われるだろうと思う。




しかし、僕はそんなに「いい奴」にはなれそうもない。

批判する人を苦々しく思うし、強く批判されると逃げ出したくなる。

とても、「貴重な意見を下さりありがとうございます。」なんて思えそうもない。

口だけなら言えるかもしれない。

しかし、本心からそう言うことは、今の僕にはできそうもない。



だから、僕はこう考えている。



「批判は汚物だ」と。



日常生活において、誰でも体から汚物を排出することだろう。

だから、汚物自体は何も問題はない。

汚物を排出することは自然の摂理であり、責めに帰するようなことでもないだろう。



しかし、どこでも所構わず汚物を垂れ流したらどうだろう。

周りの人々は不快になって当然ではないだろうか。

批判ばかりしている人は、そういう行動を取っているのだと僕は捉えている。

自分の心の中というトイレだけでなく、公衆の面前で汚物を垂れ流し、あまつさえ、相手に汚物を塗りつけようとする。

もちろん批判は汚物だというたとえは僕の脳内世界のものなので、恐らくそういう人の大半は、自分の批判が汚物だとは思っていないだろうが。




では、そういう批判ばかりしている人に対し、どう接すればいいのだろうか。

復讐としてこちらも相手を批判すればいいだろうか。

それとも、あなたがその批判を真摯に受け取り、今後は批判を受けないように注意するのがいいだろうか。



模範解答のひとつとして、次のようなことが考えられる。

批判のうち、自分の行動を改善できる要素があれば、今後に活かす。

それが単なる感情的な暴言であれば、聞き流す。




たしかにこのように対処できたら、大抵の人間関係は円滑になりそうだ。

できそうなら、そうしてみるのもいいかもしれない。

しかし、そんな絵に描いたような理想的な対応が誰にでもできるなら、苦労はしないだろうと僕は思う。



僕は、一番大切なのは、その批判をいちいち受け取らないことだと思う。

わざわざあなたが汚物をもらってあげる必要はないのだ。

なるべく汚物に注目しない。

そうした姿勢が重要になる。




それでもやはり、批判に恐怖を感じ、批判そのものを避けたいという人もいるかと思う。

とてもよく分かる。

僕もそうだから。

でも批判そのものを避けてばかりいると、本当に自分がやりたいことをやる機会も逃すかもしれない。

だから自己啓発本などではよく、「批判を恐れるな」ということが言われるのだろう。




しかし、「批判を恐れない境地」に達するのはなかなか難しいのではないだろうか。

結果、批判を恐れてはいけないと考え、恐怖心を押し殺してますます苦しくなってしまうのだ。




それなら、批判を不快に感じることを、自分に許すところから始めてみてはどうだろうか。

不快に感じても当然なのだ。

だって、汚物なんだから。

だから批判に恐怖を感じていいのだ。

逃げ出したくて当然なのだ。




しかし、いくら汚物が不快でも、汚物を垂れ流す相手を正そうとしないことをおすすめする。

なぜなら、その試みはほとんどの場合において、好ましい結果は産まないだろうから。

あなたがどんなに理にかなった説得を試みたとしても、その人は恐らく行動を省みるどころか、あなたの説得に耳すら貸さないだろう。

それどころか、相手はさらに悪臭を放つ汚物をあなたに投げつけるかもしれない。




もし勇気があるなら、私はあなたの言葉で傷ついているのだということぐらいは伝えてもいいかもしれない。

しかし、そこで留めておいたほうがいいと僕は思う。

相手をコントロールしようとしないことをおすすめする。




そもそもあなたが自分が正しいと思って相手を咎めた時点で、あなたもまた、相手に汚物をなすりつけることになるのではないだろうか。

汚物と汚物のなすりつけ合いという不毛な争いは、なるべく避けたほうがいいのではないかと思う。

相手と同じ土俵に立たないことだ。




じゃあ僕らはどんなに怒りを感じても、批判という汚物を出さないほうがいいのだろうか。

批判したい衝動に駆られても、それを我慢したほうがいいのか。




僕は、排泄を我慢することは心身に有害であると思っている。

体から怒りという毒素を出すためにも、汚物は排出してしまったほうがいいのではないだろうか。




しかし、どこにでも垂れ流すわけではない。

自分の心の中というトイレや誰も見ていない部屋で、人知れず排出すればいいのだ。

もしくは、一人では処理しきれないときは、あなたの排泄物さえも受け入れてくれるような人、家族であったり親友であったり恋人であったり、そんな親密な人たちに話してみてはどうだろう。

そのときはなるべく、今日こんなことがあり、自分はこう感じたのだと、「私」を主語にした出来事として伝えるといいだろう。

すると、あなたの排泄物は、歴史的・客観的資料へと変身するだろう。

まるで遺跡で見つかった人糞の化石のように。

あなたはイメージよりも広大な存在

人があなたに付けたイメージは断片的なものでしかない。

ある意味的を得ている部分もあるかもしれないが、それはあなたの一部を切り取ったものにすぎない。




僕もかつてはよく言われたものだった。

おとなしいとか礼儀正しいとか、真面目だとか慎重だとか。



恐らく、多くの人の目にはおおむねそのように映っていたのだろう。

そして、それらの評価通り、表面上にはそうした気質がよく現れていたのかもしれない。



以前はよく、そのイメージこそが真の自分であると信じて、そちらに自分を合わせていた。

いつしかそんなイメージがとても窮屈になっていた。




だが果たしてイメージ通りの自分だけかというと、全くそんなことはない。

僕にも自己顕示欲もあれば、ユーモアの心だって持っているつもりだ。




人が自分に対して持つイメージというものは大体そういうものではないだろうか。

丸っぽい図形を見て、これは丸だと言うようなものだ。

それは丸っぽいというだけで、へこみやでっぱり、角ばった部分もあるかもしれないのだ。



人があなたに付けたイメージに囚われる必要はない。

あなたはもっと広大で深淵な存在だ。

人は便宜上、イメージという狭い枠組みにあなたを当て込んでいるだけだ。

もちろん、あなたがトレードマークとしてそのイメージを気に入っているのなら、それを利用してもいいかもしれない。

だが、そこに縛られてしまうのは非常に不自由だし、あなたの可能性を狭めてしまうと僕は思うのだ。




少しずつでもいい。

イメージというちっぽけな虫籠から脱してもいいのではないだろうか。

もっと自分に素直になってもいいはずだ。

もっと自由に表現してもいいはずだ。

あなたという存在は、無限なのだから。

人と争わなくても、人を傷つけなくても、むやみに自分を主張しなくても、あなたは自由に自分を表現できるはずだ。

存在への絶対的自信

あなたは自分の存在に絶対の自信を持っていい。


今は持てなくてもいい。


しかし、真実として、あなたの存在は絶対なのだ。




あなたが・・・




どんなに失敗しようと。


どんなに人から批判されようと。


どんなに自分に惨めさを感じていようと。


どんなに他人が優れて見えようと。


どんなに自分が劣って見えようと。


どんなに自分のことが嫌いであろうと。


どんなにできない自分が許せなかろうと。


どんなに原因不明の倦怠感を感じても。


どんなに無力感を感じても・・・




それらに関わりなく、あなたはたしかに今、そこに存在しているのだ。


あなたの心は苦しくて、あなたから離れ、過去や未来に逃避しようとするかもしれない。


今はそれでいいのだ。




たとえそうであったとしても、意識をそっと呼吸や体に置いてみると・・・


たしかに今、そこにあなたは存在しているはずだ。


これは紛れもない事実だ。







あなたの存在は絶対なのだ。


だから、自分の能力や人の評価に関わらず、あなたの存在には絶対的に価値があるのだ。





能力や人の評価や行動結果は、一時的で相対的なものだ。


しかし、あなたの存在は、あなたが生きている限り、途切れることなく永続的に続くものだ。


だから、存在への自信こそ、真の自信なのだ。


存在への自信が持てれば、外的要因に対する自信は後からどうとでもなる。


僕はマインドフルネスを深めることによって、そのことを確信した。




これはボジティブシンキングでも虚勢でもない。


自分自身に評価を下さずに忍耐強く観察した結果、得られた洞察だ。

そのままでいい

僕はずっと、自己肯定感が持てなくて苦しんでいました。

 

そこでなんとかこの苦しみから抜け出したいと、何冊も心理読み物を読みました。

 

しかし残念ながら、僕が読んだ心理読み物では、自己肯定感は根本から高まることはありませんでした。

 

それはなぜでしょうか。

 

それは、心理読み物に書いてあるようなポジティブ思考ができる人間になろうと、僕自身が「別人」を目指したからです。

 

そして、そのようになれない自分を責めていました。

 

僕はあなたにはっきりと申し上げたい。

 

もしあなたが「本質」つまり「あるがまま」のあなたで楽に生きたいと願うのなら、あなたはそのままのあなたでいいのです。

 

もしあなたが自分のことを欠点だらけだと思っているなら、その欠点だらけだと思う自分のままでいいのです。

 

欠点というものは、ものごとをある一面でだけで捉えた結果、生じるものです。

 

ものごとには必ずメリットとデメリットが存在します。

 

もしかしたら、あなたの特性はデメリットに焦点が当てられ、欠点と捉えられることもあるかもしれません。

 

しかし、今は分からないかもしれませんが、あなたの特性には必ずメリットがあります。

 

そのメリットに焦点が当てられ、あなたの特性が長所となる局面がきっとあるはずです。

 

だから、あなたは欠点だと思う特性を無くそうと努力する必要はないのです。

 

僕が就職活動をしていたころもそうでした。

 

企業では外交的・社交的な人材やジェネラリストが求められる傾向にありました。

 

だから、コミュニケーション上手ないわゆる「明るい人」や、広く浅くこなす器用な人がもてはやされる時代でした。

 

そのため、当時の就活マニュアルでは、いかに自分を明るく社交的な人間に「見せる」かということが頻繁に書かれていたかと思います。

 

僕はどちらかといえばそれとは逆のタイプ、つまり内向的で「狭く深く突き詰める」ことが得意でした。

 

だから当時の僕の特性は、多くの企業にとっては欠点と捉えられるものだったでしょう。

 

今はある程度、多様性が認められる時代になりました。

 

物質的価値だけでなく、精神的なものへの価値も高まってきました。

 

すると、この内向的で、ものごとを突き詰める特性がとても役に立つ局面が現れるようになったのです。

 

以前は自分の内向的な部分が嫌いでしたが、今では内向的でよかったと思っています。

 

しかし、そのままのあなたであることを認めたら、今の自分が抱える課題が解決できないと思うかもしれません。

 

その気持ち、よく分かります。

 

僕もそれが怖かったから、そのままの自分ではない自分、つまり「別人」になろうと、もがいてきたのですから。

 

だからこそ、僕はあなたにはっきりと伝えるでしょう。

 

それでもあなたはそのままのあなたでいい。

 

課題を解決するために、「別人」になる必要はないのです。

 

そのままのあなたで、ものごとへの関わり方だけを変えればいいのです。

 

人間関係を改善したいからといって、社交的人間になろうとする必要はないのです。

 

内向的で口下手なあなたでもいいのです。

 

そのままのあなたで、人間関係の改善を目指せばいいのです。

 

(さらに言えば、あなたが思うほどあなたは口下手ではないかもしれませんし。)

 

怖がりだからといって、度胸ある人間になろうとする必要はないのです。

 

怖さを感じるまま、ものごとに取り組めばいいのです。

 

また、そのままの自分であることを認めたら、怠け心に支配され、その課題を解決しようと努力しなくなるのではないかと心配かもしれません。

 

それでもあなたはそのままのあなたでいい。

 

その課題を解決しようと決心しているあなたは、そのままのあなたでもきっと、努力を続けます。

 

今は怖くても、どうかそれだけは信じてください。

 

しかし、ならばそのままの自分でものごとに取り組んで、その課題が解決しなかった場合にどうすればいいのでしょうか。

 

もし、あなたがまだ、さらなる工夫や努力をしたいと思うなら、そうしてみてもいいかもしれません。

 

もちろんそのままのあなたで。

 

しかし、あなたの「本心」が、もうそれ以上やりたくないと感じているなら、その課題は本質的に、あなたには解決する必要がないものかもしれません。

 

あなたは本来、その課題を解決する役割を担っていないのかもしれません。

 

残念かもしれませんが、そのときはその課題を諦めてもいいかもしれません。

 

そして、自分に見合った別の道を探してみてもいいかもしれません。

 

もし、あなたが「本質」で生きていきたいのなら、僕はあなたにそうすることをおすすめします。

どんな感情もそのまま感じていい

こんなふうに感じてはいけないと考えて、起こった感情を押し殺す癖はありませんか?

どんな感情もあっていいのです。

そして、そのまま感じていいのです。

なぜなら、その感情もあなたの一部なのですから。



ここではこう感じるべきだ、こう感じるべきではない。

誰がそんなことを決めたのでしょう。



つまらないものはつまらない。

怖いものは怖い。

嫌いなものは嫌い。

それでいいのです。

ただそういう感情があるだけです。

起こった感情を否定する必要は何もないのです。



もちろん、今までその感情を避けてきたのであれば、いきなり真っ向からぶつかるのは刺激が強すぎるかもしれません。

焦る必要はありません。

まずは観察から始めてみてもいいかもしれません。

そして、まるで冷たい水に足を漬けるように、少しずつ少しずつ、その感情に触れてみるのです。


不快な感情を感じたからといって、そのとおりに行動する必要はないのです。

怒りが沸いたからといって、相手を殴らなくていいのです。

暴言を吐かなくていいのです。

ただ怒りを感じればいいのです。

どうしても暴言を吐きたくなったら、頭の中で言うか、その場を離れ、人に聞かれない場所で一人で言えばいいのです。

ときには仲のいい友人に愚痴をこぼすのもいいかもしれません。



もちろん慣れないうちは、不快な感情をすぐに払いのけようとしたり、押し殺そうとするかもしれません。

しかし、何度も練習を重ねると、少しずつそのまま感じられるようになるでしょう。

そして、不快な感情を避けるために努力するよりも、そうするほうが楽だということに気づくでしょう。

これを重ねると、あなたは「そのままの自分でいいのだ。」という真の自信を身につけるでしょう。


こうしてあなたは「ありのまま」すなわち「本質」に近づいていくのです。