もしあなたがどんなに心を整える努力をしても、人や世間を憎んでしまうのなら、一度あなたの中にある「憎む心」を認めてはどうでしょうか。
巷の心理読み物などを読むと、さも「憎む心」などまったくない清らかな人間になれるのではないかと期待するかもしれません。
もしくは、そんな人間に「ならなければいけない」と思うかもしれません。
しかし、実際のところは、そのような人間になろうと実践をしても、やはりちょっとしたことで人を憎んでしまう。
もしくは、そんな自分の心を押し殺して余計に苦しくなってしまう。
そして、そのように憎んでしまう自分を、心が歪んだダメなやつだとジャッジしてしまう。
そんなこともあるのではないでしょうか。
「憎む心」は誰にでもある
そもそも「憎む心」があって何がいけないのでしょうか。
誤解を恐れずに言えば、誰にだって多少は、「憎む心」があるのではないでしょうか。
もちろん僕にもあります。
おそらくあなたにとって聖人君子に見えるあの人にだって、ただ表現していないだけで、胸中に少しくらいは「憎む心」があるでしょう。
「憎む心」があることと、それに取り込まれることは別問題
もしかしたら、あなたは心配するかもしれません。
「憎む心」を自分の中に認めてしまったら、それに取り込まれて「悪行」を働いてしまうのではないかと。
その心配は、取り越し苦労となるでしょう。
「憎む心」があるからといって、あなたが必ずそのとおりに行動するというわけではありません。
「人を憎みたくない」と思い、自分の心を律する努力をしてきたあなたなら、なおのこと大丈夫です。
「憎む心」があることと、それに取り込まれることは別問題なのです。
「憎む心」があっても、それにもとづかない行動を選択することも可能なのです。
むしろ、あなたの中にある「憎む心」を根絶やしにしようとするから、「憎む心」はますます我が身を守ろうと増大するのではないでしょうか。
「憎む心」の存在を認める
だから今は、「憎む心」があることを認めてあげればいいのではないでしょうか。
「自分の中に憎む心がある」と、ただ気づいてあげるだけでいいのです。
そして、もし可能なら「憎む心」をそのままにしておきましょう。
自分の中の「憎む心」を認めることで、あなたはそれと距離が取れるようになるでしょう。
少しずつあなたの満たされなかった心は癒されることでしょう。
そしてあなたは、「憎む心」を少しずつ手放せるようになるでしょう。
「憎む心」を責める心もまた、あっていい
とはいえ、今はまだ、「憎む心」を責めてしまうかもしれません。
しかし、「憎む心」を責める心もまた、あっていいのです。
「憎む心」を責めてしまうのなら、そんな自分も認めればいいのです。
それは、簡単なことではないかもしれません。
これまでしてきた「憎む心」を追い出す努力とはまた違った苦しみを伴うかもしれません。
しかし、こうして認めていった先に、あなたの「本心」が少しずつ姿を現すはずです。
「憎む心」が自分の中にあったとしても、「本心」に注意を向けることで、そこに触れることができるのだとあなたは気づくことでしょう。