感情とは折り合いをつけるもの
よく、感情を「克服する」という表現を見かけます。
おそらく、苦手意識によって囚われていた感情があったが、その感情に心悩まされなくなったというような意味なのでしょう。
「克服」の言葉の意味を見てみましょう。
***************************************************************************
克服
[名](スル)努力して困難にうちかつこと。(出典:デジタル大辞林)
***************************************************************************
前向きで力強い言葉だと感じます。
しかし、自分の心との関わりを長年模索してきた僕は、感情に対してこの言葉を使うのは少し違うのではないかと思うのです。
感情との戦いを想起させる
もちろん、これは善い・悪いの問題ではありません。
この言葉があなたにとってしっくりきているなら、ぜひ使っていただければと思います。
ここは僕のこだわりといいますか、細かいニュアンスの話になってきます。
ですから気にならない人は、この記事を読み飛ばしてもらって構いません。
「克服」という言葉から、僕は感情との戦いを連想するのです。
何か感情に「ここではこうあるべき」という正解があって、それと違う状態になっているから正そうという意図を感じるのです。
もちろん、その感情によって行動が制限され、実際に不自由を感じているのかもしれません。
それは非常に不快なことと察します。
だから、それを正したいという気持ちは痛いほどよくわかります。
しかし、心というのは「こうあるべきではない」と思えば思うほど、正そうとすればするほど、その傾向を強めるものなのです。
(森田療法ではこれを「精神交互作用」と言います。)
戦いではなく調和を
心を思い通りにコントロールしたくなるのは人情でしょう。
実際、そのようにできるのではないかと感じるかもしれません。
ですから、心を力づくでねじ伏せたくなるかもしれません。
しかし、心と戦うことは非効率的な関わり方であるということは、このブログで一貫してお伝えしているところです。
もちろん、そのような関わり方がうまくいっているのだという人は、そのようにしていただいていいと思います。
もう心との泥沼の戦いに疲れたのなら、心と調和を図ってみるのもいいのではないでしょうか。
僕は、感情とは「克服する」ものではなく、「折り合いをつける」ものだと思っています。
その感情の居場所を作ってあげて、起こるまま・去るままにさせるのです。
もちろん、なすがままになるのではなく、同調するかどうかは我々が選ぶ。
すると、感情のほうも段々と、僕たちへの接し方を変えてくるでしょう。
言うほど簡単ではないことはよくわかっています。
何度も何度も繰り返し実践が必要でしょう。
しかし、感情との不毛な戦いに比べれば、数段楽だと僕は思います。