本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

自分を許すということ

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2021年の締めくくりに、ちょっと僕の話をさせていただきましょう。

 

「こんな自分は嫌だ」

 

「だから別人になるんだ」

 

そう考えて努力をしたら、結局は自分自身として生きることが幸福であることを理解しました。

 

「サラリーマンの仕事なんて嫌だ」

 

「だから俺はサラリーマンをやめるんだ」

 

そう考えて努力をしたら、結局は窓際サラリーマンに落ち着きました。

 

「俺が住む街なんて嫌いだ」

 

「だから俺はここを出るんだ」

 

そう考えて努力をしたら、結局は自分が住む街に流れる河の景色がとても美しいことに気づきました。

 

願望追及をやめる

 

「俺が価値を感じるものは一体何なのか」

 

「きっとここではないどこかにそれがあるはずだ」

 

そう考えて探し求めたら、結局そんなものはどこにもありませんでした。

 

いや、違います。

 

実はすでにここにあったのです。

 

ただ気づいていなかっただけなのです。

 

陳腐に聞こえてしまったなら申し訳ありません。

 

しかし、本当にそうなんですよ。

 

この逆説の世界は、残念ながらそういうところなのです。

 

「もっと良く」には際限がありません。

 

そして、それが必ずしも自分にとって適したものとは限りません。

 

願望追及も、度が過ぎればブッダが戒めた貪欲の種となるでしょう。

 

だからもう、「もっと良く」を追い求めることを、やめてみてもいいのかもしれません。

 

自分を許す

 

結局本当の本当の本当に大切なものは、

 

肩書でも、

 

業績でも、

 

収入でも、

 

住む場所でも、

 

友人の数でもなく、

 

どんな状態の自分であれ、ただ、今の自分を自分が許していること。

 

それだけなんだと理解しました。

 

だから今の自分が嫌いなら、嫌いなままでいればいいんです。

 

今やっている仕事が嫌いなら、嫌いなままでいればいいんです。

 

今いる場所が嫌いなら、嫌いなままでいればいいんです。

 

それもまた、自分を許すということです。

 

自分を許していれば、あとのことは、時が来ればおのずと付いてくるでしょう。

 

だから焦ってもいいですが、大自然にお任せしてゆったりと構えていればいい。

 

許し続けていれば、おのずと変わる

 

「何をのんきな。そんなことを言っていたら、ずっと嫌いな場所にとどまることになるじゃないか」

 

「それに甘んじろというのか」

 

あなたはそう心配するかもしれません。

 

よくわかります。

 

僕もずっとそう思っていましたので。

 

しかし大丈夫です。

 

何も僕は、これまで散々努力したあなたに、

 

「歯を食いしばってそこにとどまり続けなさい」とか、

 

「何とか工夫してそこに適応しなさい」と言っているわけではありません。

 

あなたが今の自分を許し続けていれば、

 

本当に耐えられない状況になったとき、

 

あなたはそこを離れることでしょう。

 

そして、あなたが真に進みたい方向があるのなら、きっとそちらへ進むはずです。

 

それは、これまでのような、

 

強引さのともなう野心的努力とは違い、

 

きわめて必然的なもののはずです。

 

だからもう、人生を良くしようなどと余計なはからいはせず、

 

ただ坐りましょう。

 

そして、今の自分に気づき続けましょう。

 

それもまた、自分を許すということです。

 

人生は、

 

良くしようとしないことで、

 

本当の意味で良くなっていく。

 

2021年もお付き合いいただきありがとうございました。

 

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サイコ日記・不信感ヲ観察スル

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某月某日。

 

月が美しい夜だ。

 

心がひたすらにザワザワしている。

 

「信じてたまるか」と言っている。

 

思考の渦に取り込まれる。

 

しかし、これを観察している僕は、「ああ、巻き込まれているな」と自覚している。

 

「いやはや、すごい渦だ」

 

思考の渦と表現したものの、もはや言語や映像という形をとっていない。

 

何かネバネバ・モヤモヤした液体とも気体ともつかない覆いとなって、心におっかぶさっている。

 

というよりも、思考なのか感情なのかもよくわからない。

 

おそらく両方だろう。

 

なんという気持ち悪さだろうか。

 

目が回りそうだ。

 

不快で不快でたまらない。

 

しかし、僕はこの不快さを払おうとはしない。

 

そんな試みが徒労どころか逆効果であることは、この三十年ほどで吐き気がするほど味わい尽くしているからだ。

 

「信じてたまるか、と君は言うが・・・」

 

「いったい何を信じないのか?」

 

いちおう、この渦の主に聞いてみる。

 

渦に巻かれたまま不快さに逆らわず、ぼんやりと観察する。

 

答えを求めずに。

 

すると主が答える。

 

言葉ではなく、流動体の感触をもって。

 

「何が信じられないかって?」

 

「そんなこと、聞くまでもなくわかっているだろう」

 

「自分自身をだ」

 

なるほど、たしかに聞くまでもなかったな。

 

この不信感、見かけは他者に対してのものという形式を取ってはいる。

 

が、他者不信とは、突き詰めれば自己不信だ。

 

そして、僕はこの不信感もそのままにしておく。

 

「自信を持て」

 

このような陳腐な励ましが役に立たないこともまた、じゅうぶんに経験済みなのだから。

 

そして、この不信感の存在さえも許すことが、本物の自信につながることも理解している。

 

僕はただそこにとどまり続ける。

 

不快さのなかを。

 

何も変えようとせずに。

 

そして僕は、ふたたびこの渦の主に優しく語りかける。

 

大丈夫。

 

僕は君を信じている。

 

今は存分に吐き出していいよ。

 

この渦はいずれ弱まることも僕は知っているんだ。

 

そのときは、何か楽しいことでもしようか。

 

起きてくることにただ気づいている

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僕は瞑想のとき、

 

何かをイメージしようとしません。

 

何かを思い出そうとしません。

 

心の声で何かをアナウンスしたり、

 

マントラを唱えたりしません。

 

呼吸をコントロールしようとしません。

 

呼吸を数えたりしません。

 

何かを感じようとしたり、

 

感覚を維持しようとしたりしません。

 

何かを消そうとしたり、追い出そうとしません。

 

何かを変えようとしません。

 

ただそこに佇み、そっと意識を置きます。

 

そして、起きてくる呼吸、感覚、感情、思考をなるべくそのまま眺め、場合によってはそれらに触れてみます。

 

また、これらが起きてくることを、なるべく妨げません。

 

このように、僕が行う瞑想は、起きてくることに身を任せるものです。

 

きわめて受動的です。

 

もちろん、このやり方だけが正しいのだと言うつもりはありません。

 

僕はこの、何の役にも立たないかのように見える何もしない時間を、毎日約15分~20分、設けています。

 

どんなに忙しくても、これだけは欠かせません。

 

この瞑想中に起きてほしくない感覚や思考が起こり、不快さのなかでとどまることもあります。

 

もしくは、不快さに耐えきれず、起きてきたものを押し殺したり、払いのけようとすることもあります。

 

また、自分に都合が悪いことが起きてこないように身構えて、心身がこわばることもあります。

 

しかし、それでいいのです。

 

不快さや、それが耐えきれないという感覚。

 

それに対する予知。

 

それらもまた、すべて起きてくることなのです。

 

あらゆる起きてくることになるべく抵抗せず、ただそれらに気づいていること。

 

それができたかどうかの結果ではなく、そのような態度でいること。

 

そしてできなかったと感じたとき、そんな自分を責めようとしないこと。

 

もしくは、自分を責めている思考にも抵抗しないこと。

 

それが、瞑想において大切な姿勢だと僕は思うのです。

 

これを忍耐づよく続けることで、僕は理解しました。

 

起きてくることをどうにかしようとすること。

 

実はこれが、苦しみを増幅していたのだということを。

 

僕たちには、起きてくることを起こらないようにすることはできないのです。

 

できることは、起きてくることに備えるところまでです。

 

そして、備えにも限界があります。

 

すべての危機に備える。

 

それはどだい無理な話です。

 

なぜなら、危機とは、僕たちの思考が危険だとみなしているものだからです。

 

むしろ、備えれば備えるほど、思考は備えるものを増やしていくのかもしれません。

 

備えようとすればするほど、危機は増すのかもしれません。

 

ならばもう、備えることはほどほどにしてはいかがでしょうか。

 

そして、後のことは大自然にお任せしてはいかがでしょうか。

 

実は怖れたような結果にはならないかもしれません。

 

「そんなことを言って、もし何かあったらどうするんだ」

 

あなたはそのように思うかもしれません。

 

その気持ち、よくわかります。

 

僕もかつてはそう考えていましたので。

 

だから僕はあなたに言うでしょう。

 

起きてから対処を検討するというのはいかがでしょうか。

 

さあ、難しい理屈は脇に置きましょう。

 

そして、ただ坐りましょう。

 

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自己表現の場

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母は毎日、時間をかけて料理する。

 

どうやらいいものを作りたいという意欲が強いようだ。

 

そして母自身、そのことを知ってはいるが受け入れきってはいないようだ。

 

よく「今日も料理めんどうくさいなあ」とこぼす。

 

こぼしながらも、やはりじっくり丁寧に食事を作る。

 

完全欲が強いところは、僕の親だなと思う。

 

僕もしっかりその傾向を受け継いでいる。

 

以前は僕も母を気づかって、ときどき代わりに料理を作ったり、手伝ったりしていた。

 

しかし、母は礼は言うものの、なぜかあまりうれしそうに見えなかった。

 

ときには僕の作り方について改善点を指摘したり、「見ていられない」と僕をどかせて具材を切ったりすることもあった。

 

そのたび僕は「せっかくやってあげてるのに」と苦々しい気持ちになったものだった。

 

料理は母の自己表現

 

最近、僕の認識が変わった。

 

料理の時間はきっと、母の自己表現の場なのだ。

 

なんだかんだ言って、母は料理がしたいのだと思う。

 

僕は大学生の頃、県外に下宿していた。

 

夏休みなどの長期休暇で実家に帰るたび、母は毎食、腕をふるって料理してくれたものだった。

 

刺身、揚げ物、煮つけなど、それはもう、美味しいものばかりだった。

 

「めんどうくさい」と言いながら、そこにはただ料理する喜びを感じている様子がうかがえた。

 

そして今も、その本質は変わらない。

 

多少体調が悪くても、僕が「しんどそうだから今日は出来合いのものを買おうか」と提案しても、母はなかなか厨房を譲らない。

 

おおげさな言い方かもしれないが、母は料理を通じて、存分に自分の能力や感性を発揮しているのだろう。

 

だから今は、なるべく母からそれを奪わないように、

 

頼まれてもいないのに手出しをしないように、

 

気をつけている。

 

自己表現は生きる喜び

 

僕にもあなたにも、きっと自己表現の場はある。

 

それは誰かと比べて優れている技能だとか、

 

大きな業績を挙げられるものだとか、

 

生業にして飯が食えるものだとか、

 

そういった話ではない。

 

ささやかであれ、

 

卑近なことであれ、

 

何の役にも立たないように見えることであれ、

 

目的なく、ただやりたいこと

 

結果を求めずに楽しめること

 

理屈抜きで喜びを感じられること

 

きっと、そういったものだろう。

 

それは僕たちに幸福感を与えてくれる。

 

もちろん、やりたければそれを生業にしてもいい。

 

今わからなくてもまったく問題ない

 

しかし、もし今、あなたが「これが自己表現の場だ」というものに出会っていなくても、何も問題はない。

 

焦って探す必要はない。

 

むしろ、探そうとすればするほど、それは逃げていくだろう。

 

生きることさえあきらめなければ、

 

あなたなりに誠実に生きていさえすれば、

 

いずれきっと、出会うことだろう。

 

いや。

 

もしかしたら、

 

すでにあなたは出会っているのかもしれない。

 

そうとは気づかずに、既にやっていることかもしれない。

 

さらに言うなら、

 

あなたが自己表現の場に出会わなかったとしても大丈夫。

 

なぜなら、生きていることただそれだけで、あなたは自己表現しているから。

 

今はわからなかったとしても、いずれあなたもそのことを理解するだろう。

 

p.s

ここでお話しした「自己表現の場」こそ、本当の意味で言う「仕事」だと僕は思っています。

 

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存在そのものの価値に気づく

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瞑想とは、自分の存在を磨く作業でもあります。

 

存在を磨くとは、自分の存在をアピールすることとは違います。

 

自分の存在そのものの価値に気づくということです。

 

存在そのものの価値。

 

それは何かができるから、何かを成し遂げたから、何かを所有しているから自分に価値を感じるというような、条件つきのものではありません。

 

自分のことが好きだとか、そういったことでもありません。

 

存在に感じる価値は、好き嫌いなどの思考による評価を超越しているのです。

 

存在そのものの価値とは、「私は確かにここに存在している」という信頼感です。

 

そしてそれは、誰かと比べてどうかというような相対的なものではありません。

 

数値で測れるようなものでもありません。

 

なんとなく、そして絶対的に感じるものです。

 

存在に価値を感じるとき、僕たちは言葉による自己主張は不要になります。

 

なぜなら、言葉によって誰かにアピールしなくても、自分の存在を信じられるからです。

 

真の自信はそこから生まれることでしょう。

 

もちろん、自己主張そのものが悪いとは言いません。

 

ときには自己主張も、他者とのコミュニケーションを楽しむ道具となってくれるでしょう。

 

たとえばカフェで友人と、自分はこれが好きだとか、こんなときうれしいのだと語らうことはきっと豊かな時間でしょう。

 

存分に味わうといいと思います。

 

しかし、自己主張が誰かに何かをわからせようという意図を強く帯びたとき。

 

自分の主義などをむやみに主張するとき。

 

論争や弁解に多大な労力を費やすとき。

 

僕たちは気づくのがいいでしょう。

 

自分の内面に、まだ満たされないと感じている何かがあるのだということを。

 

それに気づき続けることもまた、存在を磨く作業の一つでもあるのです。

 

ポイントは、ただ気づくだけでいいということです。

 

咎める必要もなければ、変えようとする必要もありません。

 

また、満たされないものを満たそうとしなくても大丈夫です。

 

満たされないものがあるということにあなたが気づいてあげるだけで、あなたの心は少しずつ癒され、おのずと満たされていくことでしょう。

 

そして、そのたびにあなたの存在は輝きを増すことでしょう。

 

あなたの存在が輝くとき、あなたは無理に行動しなくてもいいのだと理解しはじめることでしょう。

 

あなたが存在していること、それ自体が周囲への貢献であることに気づくでしょう。

 

さあ、複雑な知識は脇に置き、ただ自分の身体に意識を置いてみましょう。

 

それを何度も何度も、忍耐強く繰り返しましょう。

 

その結果、存在は磨かれていくのです。

 

存在を磨く作業は、突き詰めればきわめてシンプルなものなのです。

 

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フルムーンボウル ~シンギングボウルの世界~

シンギングボウルをご存じですか。

 

仏壇でチーンって鳴らすおりん。

 

あれと似たようなかんじの、金属製のお椀です。

 

もともとはチベット仏教の法具なのですが、今では日本でもヨーガや瞑想の際に鳴らしたり、セラピストがヒーリングに使用したりと、広く認知されるようになってきました。

 

僕も瞑想の際に使うことがあります。

 

で、鳴らし方。

 

おりんの場合は基本的には叩くだけかと思いますが、シンギングボウルには「ヒッティング」と「リミング」があります。

 

ヒッティングとは、バチでシンギングボウルを叩いて鳴らす演奏法です。

 

ひとつのシンギングボウルから、同時にいくつかの音がビブラートのように共鳴します。

 

この音の波が、僕はとても心地よく感じるのです。

 

リミングは、バチでシンギングボウルのふちのあたりをこすって鳴らすやり方です。

 

これがまあ、神秘的で不思議な音なんです。

 

宇宙から電波を浴びているような。

 

友人がリミングで鳴らしているのをはじめて見聞きしたとき、僕は驚き感動したものです。

 

「え、何これ!?どうなってんの?」って。

 

※おりんは基本的に叩くだけと申し上げたのですが、実はおりんでもリミングは可能です。

 

さて、前置きはここまでにして、本題に入りましょう。

 

このたび「アマヤマ草庵」さんでフルムーンボウルを購入しました。

 

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今回購入のフルムーンボウル

 

www.amayama.net

 

フルムーンボウルとは・・・

 

満月の日に職人が飲まず食わず・無言で作るという、いわゆる特注のシンギングボウルだそうです。

 

こちらのアマヤマ草庵さんでは、ネパールのサンタ工房で作られたフルムーンボウルを取り扱っているとのことです。

 

サンタ工房で作られるシンギングボウルは、非常に高品質で定評があるのだとか。

 

やはりワタクシも瞑想家として、ここは良い道具を使いたいところ。

 

僕はかねてより、フルムーンボウルに興味を持っておりました。

 

当然のことながら、手打ちのシンギングボウルって、ひとつひとつ造作が違うんですよね~。

 

アマヤマ草庵さんのサイトで、写真とはいえ、たまたま大きさや輝きがピンとくるフルムーンボウルに巡り合ったため、今回の購入へと踏み切らせていただきました。

 

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サンタ工房で作られたフルムーンボウルは、その証として側面に彫りが入っているそうです。

 

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今回購入のボウルは直径11.5cm。手のひらにいい感じに収まり、僕としてはちょうどいいサイズ感です。

 

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以前から使用しているノーマルタイプのシンギングボウル(右)と並べてみます。

 

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ノーマルタイプのボウル(右)は直径13.5cm。直径が2cm違うだけで、けっこう大きさに差を感じます。

 

では、フルムーンボウルを鳴らしてみましょう。

 

まずはヒッティングから。

 

www.youtube.com

 

やや高く澄んだ倍音が響きます。

 

ビブラートの振れ幅は小さ目なように感じます。

 

しかし音色は清々しい。

 

このフルムーンボウル、第2チャクラ対応となっているのですが、僕は丹田のあたりではなく、胸のあたりに響くのを感じます。

 

以前から使用しているノーマルタイプのシンギングボウル(こちらもアマヤマ草庵にて購入)との違いを観てみましょう。

 

www.youtube.com

 

う~ん、これはこれでいい音だ。

 

甲乙など付けられん・・・。

 

ノーマルタイプはやや音が低く、ビブラートの波が大きいような気がします。

 

次に、リミングをしてみましょう。

 

www.youtube.com

 

・・・!?

 

とってもスムーズに音が伸びます!

 

これは使用感がノーマルボウルとは大きく異なりますね~。

 

ボウルに力をかけなくても、ワンワンと音が響きます。

 

↓よかったらノーマルボウルのリミングもご試聴あれ。

www.youtube.com

 

フルムーンボウルの真価は、ヒッティングではなくむしろリミングにあるのかもしれません。

 

いかがでしたでしょうか。

 

シンギングボウルの世界。

 

無くても瞑想は可能ですが、あると神秘的な雰囲気を演出してくれることでしょう。

 

また、この倍音には多少なりともヒーリング効果はあると感じます。

 

音は細胞の修復に影響を与えるといいます。

 

ならば、心地よい音に触れれば、きっと僕たちの細胞も喜ぶのではないでしょうか。

 

シンギングボウル・ワールドにご興味持たれたのでしたら、ぜひあなたも足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。

 

あなたの瞑想ライフが実り多きものでありますようお祈り申し上げます。

 

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シンギングボウル販売店

 

シンギングボウルはできれば実店舗で試し打ちをして、気に入った音のものに出会ってから購入したいもの。

 

しかし残念ながら、なかなかシンギングボウルを取り揃えているお店に出会う機会は少ないのではないかと思います。

 

なので、インターネットで購入することになる場合が多いかもしれません。

 

下記に「まあハズレはないでしょう」と僕が思うショップのリンクを貼りました。

 

よければご参考にどうぞ。

 

↓僕のお気に入りショップ「アマヤマ草庵」

手作り自然生活∞アマヤマ草庵 online shop☆人と自然に優しい「衣・食・住」暮らし

 

↓「アマナマナ」は超メジャーショップですね~

amanamana アマナマナ|シンギングボウル・ティンシャ専門店

 

↓利用したことはないですが、「ティラキタ」のシンギングボウルもよさげ

インドとアジアの雑貨・食品・衣料 - TIRAKITA.COM

 

鎮魂歌 ~親愛なるあなたへ~

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僕の大切な人が今世の旅を終えた。

 

あなたは最期まで懸命に生きた。

 

決して良くなることのない病だと知りつつ、投げ出すことなく。

 

病状が進み、ベッドから自力で動くことができなくなっても、あなたはいつものあなたと同じように、自分にできることをやり続けた。

 

不満など言わずに。

 

そして、そんなときでも、あなたは常に僕たちへの気配りを忘れることはなかった。

 

自分の運命を受け入れていたのだろう。

 

純粋そのものだった。

 

何かを獲得するためでも、どこかに到達するためでもなく、ただ生きるために生きていた。

 

僕はその姿に強く心を打たれた。

 

以前の僕は、何か目的を達成しないと生きる価値がないと信じていた。

 

結果を出し、成長することだけが人生だと思っていた。

 

もしそうであるならば、あなたのように衰弱していく一方であることが明白ななかで懸命に生きることは、意味がないということになる。

 

しかし、まったくそんなことはなかった。

 

あなたの姿はとてつもなく美しかった。

 

ただ生きることの尊さ。

 

あなたは身をもって、僕にそのことを証明してくれた。

 

最後の峠を越え、あなたの魂は身体から離れた。

 

あなたは眠っているかのように安らかだった。

 

ありがとう。

 

ありがとう。

 

ありがとう。

 

あなたは僕に本物の勇気を与えてくれた。

 

生きるとはどういうことかを教えてくれた。

 

それは僕の心にしっかりと刻まれているだろう。

 

本当にお疲れさまでした。

 

どうかゆっくりと休んでください。