本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

一斗缶で焚き火台を自作

まいど、瞑想好きおじさんのhammerです。

 

「生きるとは・・・」とか神妙なことばっかり書くのも何なので、たまには薬にも毒にもならない記事でも執筆しますかな。

 

瞑想のことがお目当ての方はどうせ読まないでしょうが、箸休めにでもお付き合いいただけましたら幸いです。

 

ぷろろーぐ

 

自宅敷地内の脇に、空の一斗缶が転がっていました。

 

多少汚れてはいるものの、洗えばまだ何かに使えそうです。

 

たいていは、今使わないものは手放す私ですが・・・

 

「この一斗缶は、きっと出番が来ることになるだろう」

 

そう思い、とりあえずキープしていました。

 

そして数か月。

 

この度、キャンプ場で焚き火がしたい気持ちが湧いてきまして・・・

 

「焚き火台、いいかもしれない」

 

この一斗缶で、焚き火台を作ることにしました。

 

というわけで、慣れない工具を片手に、工作に励むこと2日間。

 

DIYの心得がない私でも、なんとか焚き火台を自作することができました。

 

 

実を言うと、デザインはキャプテンスタッグの焚き火台↓をパクらせて参考にさせていただきました。

 

御社に深くお礼申し上げます。

 

 

作るのけっこう大変だった

 

制作過程は撮影していませんが・・・

 

私にとっては大変な作業でした。

 

生まれて初めて、電動ドリルを使いました。

 

一斗缶の表面って、思ってた以上に硬いんですね。

 

ドリルで穴を開けるのにも時間がかかりましたし、

 

金切ハサミで缶側面を切開するのも難航しました。

 

また、缶の切り口は鋭利で、そのままだとケガをしそうです。

 

そのため、切り口の淵をペンチで折り込むのですが・・・

 

これが細かいうえに、握力を使う作業でした。

 

 

そんなこんなで、完成までほぼ丸2日かかっています。

 

メーカーの既製品であれば2,000円ほどで買えるので、自作の労力をコスパに換算するなら、非常に悪いと言わざるをえないでしょう。

 

しかし、自作をしたということと、捨てられる運命の一斗缶を有効利用したということに対する自己満足は、お金では買えんのです。

 

せーるすぽいんと

 

さて、DIYド素人の私なりに、この焚き火台には工夫した部分がありまして・・・

 

燃えカスが掃除しやすいよう、正面に大きな開口部を設けています。

 

 

そして、缶の最下部から約10cm浮かせたところにレールを設置しておりまして、

 

ここに灰の受け皿が設置できるのです。

 

 

 

これで、火元が直接地面に触れずにすむというわけです。

 

また、後で気づいたのですが、受け皿は焚き火台の最下部に置くこともできます。

 

 

これにより、火元の位置を上下の二段階で調節できますね。

 

実際に使うケースがあるのかどうかはわかりませんが・・・

 

下段を使用する際は、焚き火台の下にレンガ等を敷くなどして、焚き火台を地面から浮かせる配慮が必要かもしれません。

 

受け皿は、近くのホームセンターで買いました。

 

ちょうどいい大きさのものがあったので。

 

思った以上にうまい具合にはまってくれて感激です。

 

 

以上、自作焚き火台の紹介でした。

 

見た目は粗がありますが、私なりにそれなりのものができたので、充実感もひとしおです。

 

次回、キャンプ場のレポートを兼ねて、使用感をお伝えしたいと思います。

 

 

今ここという永遠 ~自然治癒力~


私たちが時間だと思っているもの。

 

時計で測れるような時間。

 

今、何時何分であるというようなことや、

 

何かをするのに何分かかるというようなことや、

 

いついつまでに何々をしなければならないというようなこと。

 

私たちはこの区切りこそが、実在する時間であると信じてきた。

 

だがもしかすると、そうではないのかもしれない。

 

私たちは、思考を思考であると認めることで、

 

これらの時間は思考の産物であることがわかるのである。

 

この時間は、測定のための道具である。

 

もちろんこの道具は、人間にとって大変有用なものであることは疑いのないことであろう。

 

しかし、これらは真の時間であるといえるだろうか。

 

もし真の時間というものがあるのならば、それは一体何なのだろうか。

 

そこに佇み、ただそっと意識を置くこと。

 

この開かれた優しい注意は、私たちに時間についての理解を与える。

 

本当の意味での時間というものは、どうやら時計が示すものではないらしい。

 

それは今ここにある。

 

今こことは、永遠のなかの一瞬である。

 

そう。

 

真の時間とは、永遠のことなのである。

 

それを私たちは、思考ではなく気づきで感じ取る。

 

理解できなくても何も問題はないが・・・

 

これは決して、神秘的な話ではない。

 

永遠とは、修行によって到達できる場所でも、特殊な能力によって生み出せる時間でもない。

 

霊的に優れた人だけの独占物でもない。

 

永遠とは、私たちに等しく開かれているものである。

 

まさに、今ここにあるものなのである。

 

そして、私たちがただ気づくことで、今ここで触れることができるものである。

 

「触れている」とはっきりとわからなくても、あなたが今の自分自身に気づいているなら、きっと触れているのである。

 

私たちが事態をいじくり回さないならば・・・

 

この永遠という時間の流れは、ものごとを自然な姿に変容させるようだ。

 

まるで踏み荒らされた砂漠が、人間が修正を加えなくても、ときと共にその風紋を描き直すように。

 

時間を部分に切り分けて観るなら、

 

ときに不都合な出来事や痛ましい事件もあるかもしれないが、

 

永遠という流れで観るなら、

 

この流れは、確実に全体を浄化させているのである。

 

自然治癒力とはまさに、これなのかもしれない。

 

この理解は、私たちをむやみな行動から解放する。

 

そして私たちを、行動しなければならない存在から、単なる存在へと立ち返らせてくれるのである。

 

純粋な行為は、ここから生まれるのである。

 

今ここという永遠は、私たちの精神をも浄化するのである。

 

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自覚ある行為に間違ったものはない


マニュアルにとらわれる

 

私たちは、正しい行為というものを求めて、生き方のマニュアルを探すことがあるかと思います。

 

これだけ正しさというものが要求されるように見える社会。

 

それは無理もないことだと思います。

 

もちろん私もそうでした。

 

自分が行うことが間違いだらけだと信じていたので、

 

この半生は、絶対的な生き方の手引きを探し求めていました。

 

仏教の戒律を覚えようとしたり、

 

心理学の本から、正しい行動パターンというものを学ぼうとしたり、

 

ヨーガのヤマ・ニヤマを厳守しようとしたり。

 

もちろんこうした時間は、私にとって有意義なものでした。

 

運気が下がりにくい行為というものがどういうものであるか。

 

それを知る良い参考になりました。

 

しかし、私はそれに依存していました。

 

マニュアルにとらわれて、それらに合わせようとしていました。

 

私の心は、常にこう言っていました。

 

「こういう場合、どうすればいいんだっけ?」と。

 

行動のたびにそれらを思い出そうとすることは、大変なストレスでした。

 

そして私にとって、生きるということ自体が、必要以上に窮屈な作業となりました。

 

自覚ある行為に間違ったものはない

 

しかし、瞑想を実践し、私は理解しました。

 

マニュアル化されるような正しい行為というものは、無いのだということを。

 

なぜなら、自覚のある行為はすべて正しいからです。

 

いや、厳密に言うならば・・・

 

正しいのではなく、間違いではないというほうが、適切かもしれません。

 

ここで言う自覚とは、

 

自分はいい大人であると言い聞かせるとか、

 

自分は社会人として恥じない行為をすべきであるとか、

 

そういったイメージとしての自覚ではありません。

 

自分が今、そうであるとわかっているということです。

 

自覚のある行為。

 

すなわち、自分がそれをやっているとわかって、やっている行為。

 

これらにはすべて、間違いはないのです。

 

遠慮していると自分でわかっているのなら、遠慮してもいいのです。

 

恐怖におののいていると自分でわかっているのなら、恐怖におののいてもいいのです。

 

人の思惑に振り回されていると自分でわかっているのなら、人の思惑に振り回されてもいいのです。

 

人を馬鹿にしていると自分でわかっているのなら、人を馬鹿にしてもいいのです。

 

逃げていると自分でわかっているのなら、逃げてもいいのです。

 

すべて、間違いではないのです。

 

もしかするとあなたは、私のこれらの例示に抵抗があるかもしれません。

 

もちろん、抵抗があってもいいのです。

 

抵抗していると自分でわかっているのなら、私の言葉に抵抗してもいいのです。

 

それもまた、自覚のある行為です。

 

間違いではないのです。

 

ただ、この「間違いではない」の真意を誤解しないでいただきたいのです。

 

自覚のある行為をすることで、自分に都合の悪いことは一切起こらない、という意味ではないということです。

 

残念ながら、どんなに手を尽くしても、自分に都合の悪い出来事を完全に無くすことはできないし、

 

逆に、取り立てて対策を講じなくても、自分に都合のいい出来事が起こることはあるでしょう。

 

仮に自覚のある行為を行った結果、自分に都合の悪いことが起こっても、

 

それも含めて、間違いではないということです。

 

人生は塞翁が馬

 

そして、私たちは理解することでしょう。

 

ここでいう自覚のある行為を続けていれば、

 

都合の悪い結果のことは、そうそうは起こらないのだということを。

 

もしくは、起こったとしても、その後で自分なりに適切にフォローできるのだということを。

 

だから私たちは、ただ気づき続けていればいいのです。

 

自分の内面に起きてくることを。

 

そして、気づき続けることで、私たちは思い知るのです。

 

人生は塞翁が馬であるということを。

 

この一連の理解によって私たちは、人生をむやみにコントロールしようというはからいを、自発的に手放すことでしょう。

 

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全体のなかの一個人であるということ

 

個人は全体に影響を与える

 

あなたは、全体のなかの一人。

 

あなたがやることは、大なり小なり、全体に影響を与える。

 

あなたがやることは、必ず何らかの形で、誰かに何かをもたらしている。

 

だから私たちは、役立たずなどでは決してない。

 

たとえ私たちのやることが、まるで人の役に立っているようには見えなくても、

 

たとえ私たちが、周りに迷惑をかけているように見えても、

 

私たちは、役立たずなどでは決してない。

 

個人ができることにはかぎりがある

 

とはいえ、私たちはみんなと同じ、一個人にすぎない。

 

当然、みんなと同じで、その存在は尊い

 

卑下するようなことは、本来、何一つない。

 

しかし、私一人にできることにはかぎりがある。

 

残念ながら、個人である以上、私にできることは、自分の守備範囲のことだけだ。

 

私一人ができることは、全体にとってはたかが知れている。

 

だから尊大になることも、何一つない。

 

大きなことはやらなくてもいい

 

これは何も、だからみんなで力を合わせて大きなことを成し遂げましょうということではない。

 

もちろん、心からそうしたいのなら、そうしてもいいが、

 

やりたいと感じないのなら、そのようなことは、やらなくてもいい。

 

たしかに大きなことを成し遂げることは、偉大なことだろう。

 

何より、成果として外形的にわかりやすい。

 

だが、それだけがすばらしいことではない。

 

たとえ一人であったとしても、自らの領分を理解し、自分に負えることだけを、自分なりに行うこと。

 

それもまた、すばらしいこと。

 

結果は伴わなくてもいい。

 

ただやること。

 

それが尊いこと。

 

どのように役に立つかは誰にもわからない

 

何をやるかとか、

 

どんな規模のことをやるかとか、

 

そんなことが気になるかもしれない。

 

とてもよくわかるし、気にしてもいい。

 

しかし・・・

 

全体とは、無限の広がり。

 

そして全体のなかの個々の関係も、大変に入り組んでいる。

 

私たち一人ひとりがやることが、全体にどのように・どのくらい役に立つのか、

 

私たちが考えたところで、わからないだろう。

 

だから、貢献に大小や優劣をつけること自体、ナンセンスなのかもしれない。

 

些細に見える日常のことをやるだけで、じゅうぶん貢献。

 

趣味や遊びと呼ばれるものであっても、やればそれで貢献。

 

対価として賃金が発生しなくても、それでもやはり貢献。

 

ただやること、それが貢献。

 

私たちの領分でないならば、

 

そして、やりたくないならば、

 

目を惹くこと・派手なことなど、やらなくていい。

 

もちろん領分でなくても、やりたければやればいいが。

 

全体のなかの一個人であるということ

 

自分のことを、ことさらに貶めることもなければ、

 

ことさらに美化することもない。

 

自分の力を出し惜しみをすることもなければ、

 

背伸びをして、やりたくもない挑戦をすることもない。

 

今の自分のまま、今できることだけをやればいい。

 

今は何もできないなら、何もやらなくていい。

 

このことを理解し、

 

一人でやるか・誰かと共同でやるかにかかわらず、

 

自分にできることだけを、粛々と行うこと。

 

自分のできないことや、自分の守備範囲外のことは、流れにゆだねること。

 

これが、全体のなかの一個人であるということ。

 

偉大さはみんな同じ

 

私たちの存在には本来、特別な意味づけは要らないのかもしれない。

 

私たちは人間である以上、有限の肉体を介して生きざるをえないし、有限の精神からも影響を受ける。

 

だから、能力としては・・・

 

自覚のある・なしにかかわらず、

 

私たちにはそれぞれに、絶対的に得意なこと・苦手なことがあるだろう。

 

それはみんなお互い様。

 

だが、存在としては・・・

 

私たちはみんな、

 

他より劣ったものでもなければ、

 

周囲より優れたものでもなく、

 

みんなと同じ、ただの一個人ではないだろうか。

 

少なくとも私は、そのように感じている。

 

だから私は、ただゆだねて坐る。

 

自分にできること、

 

自分の守備範囲のことだけを、

 

自分なりに真摯に行う。

 

気持ちを込めず、黙々と。

 

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みのり苑を訪ねて

お香れぽにも登場した、お香製造の老舗・みのり苑。

 

自然の香木を使用した、純度が高く味わい深いお香を作るメーカーさんですね。

 

実は昨年末頃に、こちらの本社に訪問しておりまして。

 

私の不調やら何やらで、なかなか記事が書けず、4か月が経ってしまいましたが・・・

 

今ここに、レポートしたいと思います。

 

お香に興味がない方のことは知ったこっちゃありませんがには申し訳ありませんが、お付き合いいただけると幸いです。

 

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2022年12月某日。

 

滋賀県大津市

 

私は、琵琶湖の西側を、北へ向かって車を走らせます。

 

進行方向の左前方には、比良の山々が屏風のように連なります。

 

雪がかかった山並みが美しい。

 

それからほどなくして、みのり苑の本社に到着です。

 

 

来訪の経緯

 

さて、私がみのり苑のことを認識したのは・・・

 

正確な時は忘れましたが、約1年前だったでしょうか。

 

自宅近くの仏具ショップで購入した、みのり苑のお線香「風韻 きゃら龍玄」。

 

このえもいわれぬ幽玄の香りに感動し、一度本社を訪れてみたいと思っていたのです。

 

そして、とうとうそれが実現しました。

 

 

清潔な店内

 

本社の建物なのですが、思った以上に小さくて驚きました。

 

店内は非常に清潔です。

 

自社商品もきれいに陳列されています。

 

 

 

二柳社長との出会い

 

陳列棚をじっくり眺めていると・・・

 

ん?

 

「風韻 きゃら龍玄」がないじゃないか!

 

店内の女性店員さん(後でわかるのですが、この方は社長の娘さんのようです)に尋ねます。

 

「『風韻 きゃら龍玄』は、こちらには置いていないのですか?」

 

店員さんは少し驚いた表情になり、なぜそのお香を知っているのか私に聴きます。

 

そこで私は、その香りに感動した旨を伝えます。

 

すると店員さんは店の奥へ下がり、男性といっしょに戻ってきます。

 

「私が香を作りました。お褒めいただきありがとうございます。」

 

男性はみのり苑の社長であり、調香もされているという二柳 順蔵氏。

 

ちょっとうれしい出会いに興奮したのか、私が何気なく発した言葉。

 

「あのお香は本当にすばらしいです。上等の伽羅香って、本来あんな値段では買えないですよね。」

 

これに二柳社長は喜んでくださったようで、お互い意気投合。

 

お香トークで盛り上がります。

 

 

貴重な香木を拝見

 

さらに、私がこのお店に来る以外に何の目的も持たずに、約160km離れた遠方から来訪したことを歓迎してくださり・・・

 

普段は店内で展示などしていないという、立派な沈香の原木まで見せてくださいました。

 

テンション上がる!

 

 

 

このフォルム、美しすぎる・・・

 

まさに自然が作り上げた芸術作品です。

 

この原木ではないですが、販売している沈香木を実際に焚いてくださいました。

 

本当にほんの一かけだったのですが・・・

 

香ばしく深い香りが、店内じゅうに広がりました。

 

私もほんの2cm片ほどですが、購入しました。

 

 

 

みのり苑の魅力

 

さて、二柳社長から、お香作りの想いなども色々うかがいました。

 

やはり見込みどおり、社長は本物志向の職人さんでした。

 

調香が好きで、自分が納得のいく香りの製品を作りたいとのこと。

 

みのり苑では、香木の純度が高いお香を、できるだけ安価にて提供することを心がけているということでした。

 

大量生産ではいわゆる大手には到底及ばないのは当然のことなので、そこは大手に譲り、品質を重視しているということですね。

 

それだけでなく、価格を抑える工夫もされているあたり、すばらしいです。

 

お香に情熱を注ぎ、真摯にお香作りに取り組んでいる。

 

社長からお話をうかがい、私がみのり苑のお香に感動したことも、合点がいきました。

 

お香やもろもろのことを存分に話し込んだ後、いよいよお土産を買って帰るという段になり・・・

 

なんとうれしいことに、二柳社長は私に、あの「風韻 きゃら龍玄」をたっぷりくださいました!

 

もちろんくださったのは、製作段階で曲がった等で、商品としては出荷できないものなのですが、それでも香りにはまったく問題はありません。

 

 

さらに、日本の風土に合うように調香したという、フランキンセンスのお香までいただきました。

 

クセのあるフランキンセンスに白檀などを合わせ、マイルドな香りになっています。

 

これらは社長のご厚意によるものですので、催促等なさらないようにお願いします(笑)

 

もちろん、お土産も買わせていただきましたよ。

 

 

「調香 五番」は伽羅香。なかなか店頭では見られない貴重品

 

普段お目にかかれない香木に触れ、

 

お香談義にも花を咲かせ、

 

お土産もたくさんいただき、

 

とても楽しい時間を過ごすことができました。

 

二柳社長、本当にありがとうございました。

 

この記事で、みのり苑の魅力が少しでも伝われば幸いです。

 

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〒520-0524 滋賀県大津市和邇今宿384-3
TEL 077-594-1845 / FAX 077-594-2151
休業日  日曜・祝日(土曜は不定休)
営業時間 平日9時〜18時
     土曜10時〜17時

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※ 当記事及び記事内の写真は、みのり苑に了解を取って公開しています。

 

www.minorien.co.jp

 

嗚呼、うるわしきパワーストーン

どーも、瞑想好きおじさんのhammerです。

 

今日はパワーストーンの世界に、ちょこっと触れてみましょうかね。

 

私もそんなに詳しくはないのですが・・・

 

少しでもあなたがパワーストーンに興味を抱いてくださるきっかけとなれば幸いです。

 

 

パワーストーンとは

 

さて、パワーストーンとは。

 

ひとことで言うと、美しい天然石ですね。

 

ルビー、サファイアやアクアマリンなどのような、いわゆる宝石として親しまれている種類のものや、おなじみの水晶など、様々な石があります。

 

最近では、ブレスレット形式で身に着けられることが多いかもしれません。

 

女性だけでなくおじさんなんかも、手首に数珠のように着けているのを見たことがあるかと思います。

 

私もそうしていますが、あれがパワーストーンですね。

 

私がつらつらと説明するまでもなく、パワーストーンのわかりやすく丁寧な説明は、ネット上にあふれていますんで・・・

 

まあそっちでも見てくださいな。(投げやり)

 

これ、とってもわかりやすい説明

www.4976do.com

 

魅力は美しさにあり

 

私は現在、スピリチュアル(ここでは狭義のものを指します)からは離れていますが、パワーストーンは今でも身に着けます。

 

やはり純粋に美しいものは、私を惹きつけます。

 

この、美しいものを美しいと感じる心。

 

私はこの感受性こそ、人間の創造性の源泉なのではないかと思うのです。

 

きっと芸術も、感受性から生まれたのではないでしょうか。

 

私たちがパワーストーンを観て、ただ美しいと感じること。

 

単純にそれが、パワーストーンのパワーではないかと私は思います。

 

自然がこのような美しい石を作り上げること自体、奇跡なのではないでしょうか。

 

どの石と関係を結ぶか

 

さて、はじめのほうにも触れましたが、パワーストーン界隈(?)には、数多くの石があります。

 

もしあなたが、初めて天然石のお店に行ったなら、きっとその種類の豊富さに驚くことでしょう。

 

当然のことながら、見た目も石によって千差万別です。

 

また、石によってどのような運気に影響を与えるのか等、様々な効能があるとされているようです。

 

どの石を授かるか、どの石と関わりを持つか。

 

あなたは迷われるかもしれません。

 

これは、あくまで参考までにしていただきたいのですが・・・

 

私は、100%直感でいきます。

 

見た目だけで決めます。

 

そのときに美しく感じた石と、関係を結びます。

 

基本的に、石の効能は気にかけません。

 

私が先述したように、パワーストーンからパワーを感じるカギは、私たちの感受性にあると思うのです。

 

そのとき私たちが、その石を美しく感じるということ。

 

それ以上に、私たちとその石との相性を示すものは、無いのではないかと私は思うのです。

 

もちろん、私たちの感じ方というものも、日々変わる可能性があります。

 

だから、そのとき美しく感じた石が、一年後にはそれほど美しく感じない、などということもあるかもしれません。

 

私の場合は、日によっても多少変わってきたりします。

 

しかし、それでいいのではないでしょうか。

 

少しドライに聞こえるかもしれませんが・・・

 

人間同士の関係と同じで、私たちと石の関係も、日々移ろうものです。

 

どんなに出会いがドラマチックで、感激的なものであったとしても、ずっと親密であるとは限らないのではないでしょうか。

 

このように、石を美しく感じられないとき。

 

そんな場合でも、その後、石とどう関わるかは、私たちの好きでいいのではないでしょうか。

 

ときめきはなくてもとりあえず面倒を見る、というのもいいですし、

 

輝きが感じられなくなった時点で縁の切れ目としてもいいのです。

 

そのときは、できれば石を無下に捨ててしまったりせず、丁重にお別れしてあげてほしいと思いますが。

 

色々申し上げましたが・・・

 

まあ要するに、パワーストーンの楽しみ方も、私たちの好きにすればいいのではないでしょうか。

 

お香などと同じで、自分の感じ方に素直でいいのではないでしょうか。

 

おまけ・私の相棒紹介

 

はい、それじゃあラストです。

 

私が今、力を借りている石たちを自慢紹介しましょう。

 

私のもとには、パワーストーンのブレスレットが3本あります。

 

私はその日の感じによって、相棒とするブレスレットを変えます。

 

それでは、我が相棒たちをご覧いただきましょう。

 

アメジスト

 

アメジストのブレスレットです。

 

ご存じ、紫水晶ですね。

 

アメジストは、今のところ、私にとって相性が非常に良いであろう石のひとつです。

 

透明感のある紫の輝き。

 

この輝きは、安定して私を惹きつけます。

 

②三種混合(オニキス・ブラックラブラドライト・ガーネット)

 

次は、三種混合ブレスレットです。

 

ぱっと見、黒一色に見えるかもしれませんが・・・

 

オニキス、ブラックラブラドライト、ガーネットの三種類の石で作られています。

 

漆黒のオニキス、

 

シラー輝くブラックラブラドライト

 

ガーネットの黒味がかったシックな赤。

 

重厚感のある美しさです。

 

③ホワイトラブラドライト

 

最後は、ホワイトラブラドライトです。

 

ラブラドライトのシラー、たまらんっす。

 

私はこれをインターネットのショップで購入したのですが・・・

 

透明とも白色ともつかない石。

 

そこに幻想的に浮かび上がる虹色のシラー。

 

写真でもわかる圧倒的な美しさに、一瞬で惚れ込みました。

 

しかし、この石・・・

 

ちょっと私には美しすぎるのか、その日の調子が思わしくないときは、なぜか私は着用することを敬遠します。

 

以上、パワーストーンのご紹介でした。

 

いかがだったでしょうか。

 

うるわしきパワーストーンの世界。

 

もしあなたもご興味が湧いたなら、少し覗いてみてはいかがでしょうか。

 

石たちから、美というエネルギーを分けてもらえるかもしれません。

 

私がおススメするショップのウェブサイトも、リンクを貼っておきます。

 

Pascle

インターネット通販でパワーストーンを授かるなら、こちらがおススメ。

扱っている石も、非常に良質であることを感じさせます。

pascle.net

石蔵

福井県敦賀市にあるパワーストーンショップ。

店内には数多くの石が並んでおり、その中から縁ある石を選ぶことができます。

石を見ているだけでも、じゅうぶん楽しめそうです。

1542852198.jimdofree.com

引き寄せようとしない 〜縁〜

 

彼は言う。

 

縁があるものは、

 

掴み取ろうと努力をしなくても、

 

自分に適したタイミングで自然に出会うだろう。

 

仮にチャンスを逃したように見えても、

 

本当に縁があるものであるならば、

 

また何らかの形で自分のもとに現れることとなるだろう、と。

 

このように言うと私たちの思考は、自分が求めるものとの縁を、意図的に自分のもとに招き入れようとするかもしれない。

 

しかし、残念なことであるが・・・

 

縁があるかないかは、私たちにコントロールすることができないだろう。

 

私たちの思考が姑息なはからいをしたところで、

 

縁がないものは、やはり縁がないし、

 

私たちが策を弄せずとも、

 

縁があるものは、やはり縁があるようだ。

 

いや、

 

むしろ縁を持とうと謀るならば、

 

かえって縁は逃げるようだ。

 

再び、彼は言う。

 

だから私は、縁を引き寄せようとはしない。

 

積極的に選択しようとはせず、流れに身を任せる。

 

彼は理解しているのだ。

 

縁というものは自分の意志を超えて、全体の流れのなかで動いているものなのだということを。

 

だから、どんなに欲して掴み取ろうとしても、

 

自分に縁がないものならば、掴み取ることはできないし、

 

焦って勝ち得ようとしなくても、

 

願いがかなった自分の姿を想像しなくても、

 

そういったよけいなことをしなくても、

 

自分に縁があるものならば、いずれ関わることとなるだろうということを。

 

彼は三度言う。

 

だから私たちは、急ぐ必要はない。

 

気づき続けながら、ただ粛々と日々を過ごせばよい。

 

なぜなら私たちの人生は、競争などではないのだから。

 

ただ生きるということなのだから。

 

ただ生きることで、縁があるものと出会う。

 

そうして出会ったものと、私たちなりに丁寧に、折り合いを付けていけばいい。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

p.s.

補足するまでもないとは思いますが・・・

 

この記事は、願望を抱いてはいけないということが伝えたいわけではありません。

 

もちろん、挑戦することなど無駄だという主旨でもありません。

 

私に言う筋合いはまったくありませんが・・・

 

願望があるのならば、それに素直であっていいと思うし、

 

挑戦したいのならば、いずれ挑戦すればいいと思います。

 

ただ私たちは、そろそろ気づくのがいいのかもしれません。

 

達成や獲得にとらわれることは、大きな苦しみとなりうるということを。