2021年が始まりました。
皆様にとって望ましい1年であることを祈ります。
2019年3月に開設した当ブログも、おかげさまで2度目の元旦を迎えることができました。
こうして続けられるのもひとえに、記事を読んでくださる皆様のおかげであると感じております。
今年も僕は、周囲と協調をしながらも、我が道を進みます。
現代社会に生きづらさを感じるあなたが「真のあなた自身」でいられるよう、ご支援をしていけたら幸いです。
それでは2021年もよろしくお願いします。
2021年が始まりました。
皆様にとって望ましい1年であることを祈ります。
2019年3月に開設した当ブログも、おかげさまで2度目の元旦を迎えることができました。
こうして続けられるのもひとえに、記事を読んでくださる皆様のおかげであると感じております。
今年も僕は、周囲と協調をしながらも、我が道を進みます。
現代社会に生きづらさを感じるあなたが「真のあなた自身」でいられるよう、ご支援をしていけたら幸いです。
それでは2021年もよろしくお願いします。
マインドフルネスによって自分の心と健全に関わっていく過程を一言で表すなら、それは「思考を超越する」ということです。
もしかするとこれは、マインドフルネスだけでなく、様々な心理ワークや、いわゆるスピリチュアルといわれるもののワークに共通したことなのかもしれません。
近年の心理学において、「メタ認知」という言葉を聞いたことはおありでしょうか。
この「メタ認知」もまた、思考の超越の一種だといえるかもしれません。
では、思考の超越とは何でしょうか。
非常に高尚な道徳的概念を身につけることでしょうか。
もしくは、思考をストップさせようとすることでしょうか。
それとも、決してものごとにうろたえない・動じない強靭な心を築き上げることでしょうか。
僕はどれもまったく違うと思います。
前者は思考を超越しているどころか、思考に依存しているといえるかもしれませんし、後者2つはもはや超人を目指す「悟りゲーム」に興じているといえるかもしれません。
もちろんその方法が自分に適していると感じるなら、選択していただいてもいいと思います。
しかし、真の自分自身として生きていくことを選ぶのなら、僕はそれらをお勧めしません。
思考の超越とは、語弊を恐れずに言うなら、「どうでもいい」という心境に近いかもしれません。
ここで言う「どうでもいい」とは、世間一般で使用される「どうでもいい」とはまるで違います。
よく言われる「どうでもいい」とは、思わしくない結果となったものごとを毛嫌いして無関心を装ったり、それに対して復讐的な行動をしようとすることではないでしょうか。
例えば、意中の人に振られてしまった。
「もうあんな人はどうでもいい」
そう考えて、以後は出会っても完全に無視し、目すら合わせようとしない。
これは、「どうでもいい」どころか、強い嫌悪の現れではないでしょうか。
関心があるという点においては、好意があることと同じではないでしょうか。
そう考えるなら、この「どうでもいい」は、まったく「どうでもよくない」といえるのではないでしょうか。
真の「どうでもいい」は、本当に「どうでもいい」のです。
好き嫌いなどの関心すらも超越しているのです。
これは「嫌いになってはいけない」とか、「好きなふりをしなさい」ということとはまったく違います。
嫌いなら嫌いでいいのです。
「自分はこれが嫌いなのだ」
ただそれだけなのです。
好きであろうと嫌いであろうと、それすらもどうでもいいのです。
しかしここで注意していただきたいことがあります。
それは、「思考を超越しよう」と努力する必要はないということです。
なぜなら、その「思考を超越しよう」という考えこそが思考だからです。
「思考を超越しよう」とむやみに努力をすると、おそらくものごとに対して無関心を装うことになるでしょう。
これもまた、ある種の心の抑圧ではないでしょうか。
ならば、「思考を超越」するにはどうすればいいのでしょうか。
究極的には、何もしないことです。
ただ忍耐強く自分の心を観察し続けるのです。
するとあなたは少しずつ、思考というものが自分とは別の生き物であると気づくことでしょう。
そのときこそ、「思考の超越」のはじまりなのです。
「瞑想で無になる」
「瞑想で雑念が消える」
そのようなお触書を目にされた方はいらっしゃるかもしれません。
そして、そのような神秘的な状態に憧れるかもしれません。
人それぞれ何を目指すかは自由ですから、もちろんそれもいいと思います。
しかし、突き放したような言い方で申し訳ないのですが、その期待はおそらく大抵は外れることになるでしょう。
たしかに僕もときおり、頭がすっきりして余計な考えが湧かず、「無になった」かのように感じることもあります。
それは非常に心地のいいものです。
ですがそれは、結果的にそうだったというだけで、求めるようなものではないし、ましてや瞑想の本質的な部分ではないと僕は思っています。
瞑想で大切なことは、考えが起こるかどうかではない。
僕はそう思っています。
それはきっと、僕たちのコントロールを超えています。
瞑想が熟練していようと、考えは起こるときに勝手に起こるのではないでしょうか。
考えが起こったとしても、それを押し殺すことなく受け流すこと。
そして、それと距離を取ること。
そのような注意の向け方を鍛錬することが、瞑想において重要なのではないでしょうか。
この鍛錬により、僕たちは自分の心を客観視できるようになるのです。
(もちろん、失敗するときもしょっちゅうあります。)
そして、忍耐強く自分の心を観察し続けることによって、洞察や自己理解が深まるのです。
ひいてはこれが、僕たちの意識の変容につながるのです。
この意識の変容は、僕たちの生き方や世界との関わり方を大きく変える可能性も秘めています。
これこそが、僕が瞑想に感じる真価なのです。
はじめに申し上げておきますと、今から述べることは、ある意味理想論です。
「今、そのようにできない自分」を責める必要はまったくありません。
欲は決して「悪いもの」ではない。
僕はそう思っています。
欲は我々の生命維持のために必要な側面もあるからです。
食欲は我々に空腹を教えてくれます。
性欲は我々に種の存続を訴えます。
睡眠欲は我々に休養を取るよう促してくれます。
だから欲そのものを悪者扱いして否定することは、短絡的思考だと僕は思うのです。
しかし、欲と付き合うにあたり、僕たちは心得ておいたほうがいいこともあります。
それは、欲には際限がないということ。
ある程度満たされたら消えていく欲も、たしかにあるでしょう。
しかしなかには、満たされたら満たされたぶんだけ大きくなり、化け物のように肥大化する欲もあります。
一生かかっても使い切ることがないほどの財をなした大富豪が、なおも脱税をするようなケースがあるかと思います。
あれはまさに、おのれの肥大化した欲に飲み込まれてしまったケースではないでしょうか。
しかし恐れる必要はありません。
欲は誰にでもあるものです。
大切なことは、欲に気づくことです。
まずは、欲に気づき、その存在を認めてはどうでしょうか。
ヨーガのなかで、「アパリグラハ」という行動指針があります。
これは「不貪(ふとん)」つまり、貪ることを控えましょうという推奨です。
これを欲の抑圧と捉えると、苦行になるかもしれません。
実際そのように指導されるヨーガの講師もいらっしゃるかもしれません。
しかし、僕に指導してくださった先生は、とても腑に落ちる説明をされました。
何事もバランスが大事であり、欲を軽んじ過ぎることもまた、問題であるということでした。
欲を抑えつけるのではなく、欲によって自分を傷つける行為をなるべく慎むようにするのが大切とおっしゃっていました。
たとえば食事も摂り過ぎると、肥満や糖尿など、自らを蝕む病因となるでしょう。
だから食欲を満たすのではなく、空腹を満たすように食事をするよう心掛けるということです。
ギャンブルもそうです。
ギャンブルを楽しむこと自体は、僕は問題はないと思います。
(僕は一切やりたいと思いませんが。)
生活費を削ってギャンブルにのめり込むなどの行為が、暮らしを圧迫したり、場合によっては家族関係を悪化させたりするのではないでしょうか。
今、僕が書いているブログですら、没頭しすぎて他のことをおろそかにすると、結果的に僕自身を傷つけることとなるでしょう。
だから、どんなことであれ、自分を傷つけない程度の節度があるにこしたことはないでしょう。
もちろん、スローガンや指針は口で言うのは簡単ですが、実践には困難が伴うはずです。
いつでもそのように行動できるわけではないでしょうし、習慣として定着するまでは、繰り返し根気よく行う必要があるでしょう。
だから、冒頭で申し上げたように、これを自分を裁くための戒律とするのではなく、あくまで方向性として心に留めておく程度でいいのかもしれません。
今は便利な時代です。
お金さえ払えば簡単に食事にありつけますし、インターネットで家にいながら大抵の生活を完結させることも可能です。
だから、過食や運動不足などで健康を害することもあるかもしれません。
また、近年はその逆で、ストイックにしすぎて自分を傷つけるというケースもしばしば見受けられるように感じます。
(自分を追い詰めるほどの厳格さもまた、欲によるものです。)
現代では、我欲を100%満たすように行動すると、おそらくたいていのことは「やりすぎ」になってしまうでしょう。
だから、いちいち欲の言うとおりに行動する必要はないのです。
また、他人とおなじように欲を満たそうとする必要もないのです。
とはいえ、修行僧のようにいつでも欲に対して控えめなのも、また味気ないかもしれません。
欲を満たすことでストレス解消になるのなら、ときには思い切り欲を満たしてみるのもいいかもしれません。
また、欲は、人生に楽しみや彩りを与えてくれることもあります。
抑圧することなく、しかし適度に距離を取り、節度をもって関わること。
難しい課題ではありますが、これが欲との上手な付き合い方ではないでしょうか。
「正義」
この言葉に対して各人が感じる意味や、心に抱く印象は様々だと思います。
皆さんがこの言葉をどのようなニュアンスで使われているのか、僕にはわかりません。
しかし僕は、現代で使われる正義という言葉に対して、懐疑的な印象を抱いています。
なぜならそこに、ある種の押しつけがましさや自己陶酔を感じるからです。
もし正義が、自分たちの「正しさ」をむやみに主張するものであるなら、そこには「正しくない」と自分たちが判断したもの、すなわち、自分たちの考えと異なるものを裁こうとする意図が見え隠れするかもしれません。
もしくは、自分の「正しさ」を押し売りし、その正義に賛同しない者まで巻き込もうとするかもしれません。
結局それは、「かくあるべし」の押しつけになるのではないかと僕は思うのです。
「正しさ」とは、事実に対して我々がくだす評価ではないでしょうか。
それは考えであり、自我の世界です。
いわば幻だと僕は思っています。
極端な例に聞こえたら大変申し訳ないのですが、ナチスドイツのホロコーストですら、当時のドイツでは正義だったのではないでしょうか。
正義とは、その程度の確かさではないのでしょうか。
我々が心に抱く正義がそれと同じだとは言いません。
しかし、どんなに高尚なものであれ、どんなに理に適ったものであれ、正義を振りかざし、そうでないと判断したものを攻撃・糾弾するなら、もしくは賛同しない者にまでその正義を強要しようとするなら、程度の差こそあれ、方向性としては独裁者が唱える正義と同種ではないかと僕は思うのです。
それは正義という名の束縛ではないでしょうか。
ならば正義などないほうがいいのでしょうか。
僕は、正義を心に抱くことそのものが有害だとは思いません。
もし僕たちが真の自分自身として、独立自尊の道を歩もうと考えるなら、大切なことは、その正義が自己完結であることではないでしょうか。
つまり、他者がその正義に対してどうであるかとかは、究極的にどうでもいいということです。
これは何も、他者を害しても構わないのであなたの正義を貫き通しなさいという意味ではありません。
それは自己完結ではなく、独りよがりです。
自己完結とは、なるべく他者を害さない・巻き込まないという姿勢です。
(協力を依頼することと巻き込むことはまったく違います。)
つまり、賛同しない人がいたとしても、そのままにしておくということです。
もし、そのような態度で心に抱くことができるなら、僕はそれを正義という言葉では呼ばないでしょう。
それは正義ではなく、「志」ではないでしょうか。
それはきっと、自分の内から自然に湧き起こるものであり、考えを超えていることでしょう。
そこには押しつけがましさも陶酔もありません。
ただ、自分がそちらの方向に進みたいから進んでいる。
他者との競争も自己アピールも、そこには存在しない。
そしてそれは、自分の本心からの望みである。
「志」にもとづいて生きるならきっと、無理に人を巻き込もうとしなくても、賛同者は現れることでしょう。
あなたの姿を見て、「志」が近しい人が、自然にあなたに協力してくれることでしょう。
それこそが「同志」ではないでしょうか。
そこには打算も上下関係もないはずです。
なぜならその動機は、「正しさ」という幻想ではないからです。
自分にとって信じられること、すなわち、自分にとっての「真実」だからです。
持論として述べますが、仮にあなたが「志」を抱いていなくても、そのことを嘆く必要はまったくないと思います。
僕は「志」は、あってもなくてもいいと思っています。
「志」をことさらに特別視することもまた、むしろ害なのではないかと感じています。
真に尊いのは立派な目標ではなく、「生きること」そのものではないでしょうか。
究極的には、「生きること」に誠実であればそれで充分であり、「志」はオマケにすぎないのではないでしょうか。
(ここでいう「誠実」とは、あなたにとっての意味合いで構いません。)
「志」を見つけようと努力しなくても大丈夫です。
時がきたなら、あなたにもきっと、「志」は自然と見えてくるはずです。
戦争や喧嘩など、表立った争いだけが争いではない。
「私は正しい。あなたは間違っている」
「これは優れている。あれは劣っている」
「こんな状態になれば勝ち。あんな状態は負け」
違いに対して価値判断が加わると、日常生活でさえも争いとなることがある。
また、相手となる他者がいなくても、争いとなることもある。
「こんなダメな自分ではいけない。もっと優れた人間にならなくては」
自分自身との戦いである。
「競争に勝つことが幸せへとつながる」
「こうすれば魅力的な人間になれる」
「霊性を高めて悟りを開きましょう」
現代社会にはまだまだ、僕たちを争いに誘う罠に溢れているのかもしれない。
(これらと争うのも争いである。)
争いは新たな争いを生むだろう。
勝った者は負けた者を虐げ、負けた者は勝った者に復讐を企てる。
だから僕たちは、争いから離れることが賢明なのかもしれない。
皆を争いに巻き込みたい人は、きっとこう言うだろう。
「皆戦っている。なのにお前だけ逃げるのか。無責任だ」と。
もちろん僕たちはその言葉で傷つくだろう。
人間だから。
それでも僕は、争いから離れるだろう。
「僕には争いは、新たな争いの種になるだけだと感じる。争いに加わらないことで、自分も苦しまず相手も傷つけず、また、新たな争いの元凶も作らないのなら、それは建設的な行いではないだろうか。ならば、僕にとっては、争いから離れることこそ責任ある行為なのだ」
僕はこれまで生きてきて、強く感じた。
人生を勝ち負けで判断したとき、生きるということはとてつもなくつまらなく、また、苦しくなるということを。
そしてそれは、結果的に自分も周囲も害するということを。
だから僕は、争いから離れるだろう。
たとえ皆が争っていたとしても、それを横目に争いから離れる。
誰かが争うことも止めはしない。
争いを力によって止めようとすることもまた、争いだからだ。
「これを変えなければ、自分が損をする。」
「人を動かそうとしなければ、自分の地位が脅かされる。」
「威圧しなければ、自分がなめられる。」
そう考えて、自分の思い通りに人やものごとをコントロールしようと画策してきたかもしれません。
僕もそうだったので、気持ちはよくわかります。
理屈では説明のつかない焦燥感。
それに取り込まれ、いてもたってもいられない。
そこに待っていたのは、戦いの日々でした。
僕たちは子供の頃、大人たちから、もしくは学校で「立派な人間になりなさい」と教わったかもしれません。
また、社会に出てからも、書店には「優秀なビジネスマンになりましょう」と言わんばかりのマニュアル本で溢れているかもしれません。
それらを受けてかどうかはわかりませんが、何者かになろうとすることが「良い生き方だ」と信じてきたかもしれません。
そして、「もっと良くならなければならない」と、もがき続けてきたかもしれません。
しかし、どこまでいってもゴールなどないということを、あなたも薄々感じ始めたかもしれません。
僕たちはもう、そのような人生との関わり方は限界なのかもしれません。
ならば、ものは試しです。
いっそ、もっと良くなろうとすることを、投げ出してみるのもいいかもしれません。
何もせずに目を閉じて、坐してみてもいいのかもしれません。
坐るのさえも億劫なら、横たわってみてもいいのではないでしょうか。
しばしそのまま、「何も取り合わない」というのはどうでしょう。
聞こえてくる音も、ざわざわとした不快感も、自分の心の声さえも、感じるままにして、他人事のように脇に流してしまってはどうでしょう。
そのとき、自分の意志を超えて、自分を責める心の声も聞こえてくるかもしれません。
それも好きにさせたらどうでしょうか。
止めようと頑張っても止まらないことは、これまでの「格闘」でもう充分おわかりのはずです。
それなら、その声への抵抗も手放してしまってはどうでしょうか。
これまで必死に頑張ってきたあなたは思うかもしれません。
「これは怠惰なのではないか?」と。
その気持ちはよくわかります。
その不安もまた、感じるままにしてみてはどうでしょうか。
そのうえで、僕はあなたに言います。
僕はこれを怠惰ではなく、瞑想と呼ぶでしょう。
もしこれが怠惰だというなら、僕は喜んで怠惰を引き受けましょう。
いずれあなたの瞑想が深まったとき、あなたは気づくかもしれません。
実はものごとを変えようとしなくてもいいのだということを。
いえ、むしろ変えようとしないほうが、結果的に自分にも周りにもプラスに作用するということを知るかもしれません。
しかし、今はまだ「変えようとしなくていい」が信じられないかもしれません。
それもまた、無理もないことです。
僕たちは長い間、「変えなければ」を信仰してきたと思いますので。
ならば、それでいいのではないでしょうか。
その「信じられない」もまた、「変えようとしなくていい」のかもしれません。
不安なまま、心もとないままでも、「変えようとしないこと」を少しずつ実践することで、あなたはいずれ理解するでしょう。
気づき続けていれば、変えようとしなくても、必要なときに変容は訪れるのだということを。
そのときまでは、それをそのままにしておいていいのだということを。
そしてそれが、愛のある態度なのだということを。
それを僕たちは忍耐と呼んでもいいのかもしれません。