本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

大丈夫

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過剰に「キラキラした」言葉や綺麗ごとが苦手な僕ですが、そんな僕でも好きな言葉があります。

 

それは「大丈夫」という言葉です。

 

なぜならこの言葉は、究極的な真実を述べた言葉だと感じるからです。

 

あなたは今、苦しみのなかにあるでしょうか。

 

どんな想念が作り上げているものであれ、その「苦しい」という感じは、紛れもなくあなたにとっての事実です。

 

ですから、その感じ方自体は妄想などではないと僕は思います。

 

自分は今、苦しいのだとしっかり認めてあげればいいと思います。

 

しかし、あなたが苦しみのなかにあったとしても、あなたはきっと大丈夫に違いありません。

 

これは何も、苦しみを押し殺して、苦しくないふりをしなさいと言っているわけではありません。

 

もし真の自分自身として生きたいなら、むしろそのようなふりは、なるべくやめることをお勧めします。

 

苦しいものは苦しい。

 

それでいいのです。

 

というより、それで仕方がないのです。

 

苦しみ自体を自分のなかからどうにかしようとすると、かえって苦しみが増幅します。

 

だから、苦しみはなるべくそのまま感じるのがよいのです。

 

しかし、その苦しみを感じていたとしても、あなたは大丈夫なのです。

 

大丈夫だと思えなくて構いません。

 

いや、大丈夫だと思おうとしないほうがいいかもしれません。

 

それでもあなたは真実として、大丈夫なのです。

 

たとえ、大丈夫ではないように思えたとしても、大丈夫なのです。

 

なぜなら、どんな考えや感情があったとしても、あなたの存在は変わらずそこにあるからです。

 

あなたが生きているかぎり、そこにあり続けるからです。

 

立ち向かうことをやめ、そこを離れたとしても大丈夫です。

 

逃げているように見えるその最中も、あなたの存在は体を伴って、しっかりそこにあるからです。

 

そしてあなたが行く先は、無数にあるからです。

 

生きているかぎり、あなたは大丈夫です。

 

「ここだけが世界の全てだ。」という考えが虚妄であると知ったとき、あなたはどうとでも生きられるということに気がつくかもしれません。

 

つまり、あなたは本当に大丈夫なのです。

 

だから抵抗をやめ、苦しみに身を委ねてみるのもいいかもしれません。

 

するとあなたは気づくでしょう。

 

人生において、小細工を弄する必要はないのだということを。

 

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逆説的・幸福論

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幸福になろうとするとき、僕たちは幸福ではないのかもしれません。

 

なぜなら、幸福に「成ろう」としているからです。

 

不幸であること

 

もし、僕たちがポジティブな気分であることだけが幸福だと思っているのなら、既に僕たちは不幸なのかもしれません。

 

なぜなら、僕たちは生きているかぎり、ポジティブな気分もネガティブな気分も両方味わうものだからです。

 

そして、それらはどちらも単なる一状態であり、どちらか片方だけがすべてではないからです。

 

これのみがすべてだという「迷妄」自体、既に苦しみです。

 

もし、僕たちが成功し続けないと幸福ではないと考えているなら、既に僕たちは不幸であるに違いありません。

 

なぜなら、それは実現不可能な条件だからです。

 

僕たちは生きているかぎり、成功も失敗も両方体験するものだからです。

 

また、成功も失敗も、そのときの何かを基準にした、結果に対する相対的な価値判断に過ぎないのです。

 

その状態を切り取って、成功したから幸福、失敗したから不幸だと判断すること自体、不幸なのかもしれません。

 

もし、僕たちが成長・拡大し続けないと幸福ではないと考えているなら、いずれ僕たちは不幸です。

 

なぜなら、拡大・成長し続けることが可能という理論自体、嘘であるということは、平家物語が著された時代から、いや、ブッダが生きていた紀元前5世紀から既にわかっていることだからです。

 

幸福であること

 

幸福に「成る」ことを手放し、今という時間をそっくりそのまま自覚し続けるとき、僕たちは既に不幸を脱しています。

 

なぜなら、そこには不幸という概念が存在しないからです。

 

しかし、徹底的に幸福に「成ろう」ともがいてみることも、人生において尊い時間なのかもしれません。

 

なぜなら、それによって、幸福に「成ろう」とすることでは決して幸福にならないという、逆説的な真実に気づくかもしれないからです。

 

幸福への執着は即ち不幸。

 

そのことを存分に味わったとき、僕たちは人生に対する抵抗を手放しているかもしれません。

 

そして、真の自分自身として生きるのかもしれません。

 

そのとき、自分が幸福で「ある」ことに気づくかもしれません。

 

大丈夫。

 

焦る必要はありません。

 

あなたは幸福に「成ろう」としてもしなくても、「生きること」を諦めさえしなければ、行き着く先は幸福なのです。

 

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探そうとしないこと

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瞑想において、探そうとしない姿勢は大切だと僕は思います。

 

坐して、もしくは横たわって瞑想をしている間、何も探そうとしません。

 

心地よさも、

 

リラックスも、

 

集中も、

 

洞察も、

 

何も探しません。

 

ただ来るものに対して、なるべく平等に注意を払おうとします。

 

これはいわば、結論を求めないということに似ているかもしれません。

 

この注意の払い方は、坐して、もしくは横たわって行う鍛錬としての瞑想の最中だけでなく、日常生活においても有効なものであると僕は思います。

 

僕たちは現代社会において、答えを急ぐことを過剰に求められているのかもしれません。

 

瞑想でさえ、即効性の特効薬であることを期待して臨む方がいらっしゃるかもしれません。

 

「瞑想をやれば、極上のリラックスが味わえるはずだ。」

「脳が活性化して、生産性が格段にアップするに違いない。」

 

そして、期待した時間内に期待した効果が得られず、瞑想に対して失望するのです。

 

巷の情報などを見ると、そのように思われるのも無理はないでしょう。

 

しかし、それは忍耐を欠いた態度なのかもしれません。

 

これまでは、結論を必死に求めていたかもしれません。

 

そしてむやみに努力していたかもしれません。

 

それは苦しみであったかもしれません。

 

しかし、探さないという姿勢を続けることで、きっとあなたは気づくでしょう。

 

探さないことは、実は結論に達する近道なのだと。

 

結論を求めないことで、探そうとするよりも格段に楽に、結論にたどり着くのだということを。

 

そこからさらに探さないことで、あなたは知るかもしれません。

 

結論だと思っていたこともまた、数ある選択肢のひとつに過ぎないということを。

 

そして、そこで終わりではないということを。

 

そこに達した後も、僕たちが生きているかぎり、人生は連綿と続くのだということを。

 

人生を全体として観たとき、真の意味で、結論というものは存在しないのかもしれません。

 

だから、本当は何も探さなくていいのかもしれません。

 

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友達は多いほどいいという嘘

僕はこの記事を、人間関係に対して苦手意識がある一方で、「社交的でなければならない」と考えて、内向的な自分を否定してしまう人に向けて書きます。

 

それ以外の方には、おそらく参考にはならないだろうと思います。

 

そのことをご理解のうえ、閲覧くだされば幸いです。

 

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あなたは子供の頃、大人たちから「友達は多いほどいい」というような考えを教わったかもしれません。

 

そして、そのことを真に受けて、必死に人と仲良くしようと努めたかもしれません。

 

もちろんそのようにすることで心豊かに過ごせている人もいることでしょう。

 

しかし、どこか無理をして苦しかったり、自分に嘘を付いているような違和感があるのなら、一度立ち止まってみてはどうでしょうか。

 

その考えを疑ってみてはどうでしょうか。

 

友達は少なくてもいい

 

結論から申し上げます。

 

「友達は多いほどいい」というのは嘘です。

 

僕はこれを、根拠のない非論理的意見であると思っています。

 

嘘とまで言い切るのは乱暴に聞こえた方もいらっしゃるかもしれません。

 

たしかに、中には心から「友達は多いほどいい」と感じている人もいらっしゃるでしょう。

 

しかし、誰にでも当てはまるわけではないという点から見て、論理的に「真」ではないということです。

 

真実を述べると、「友達は多くても少なくてもいい」のです。

 

つまり、友達は少なくてもいいのです。

 

もちろん、多いほうがいいと心から感じる人は、友達作りに励んでもいいのです。

 

しかし、内向的なあなたが、そんなイバラの道を選択する必要があるでしょうか。

 

あなたにとって、無理して友達を作ろうとすることは、大きなストレスではないでしょうか。

 

友達が多いことのデメリット

 

また、仏経典「スッタニパータ」のなかで、ブッダも同様のことを述べたとあるのですが、友達が多いということは、しがらみが多いということでもあります。

 

しっかり自己主張ができる人なら、そんな状態でもある程度自由に過ごせるかもしれません。

 

もしくは、多少自由が制限されたとしても、それ以上に充実感が勝るかもしれません。

 

しかし、あなたにとっては束縛となり得るかもしれません。

 

自己主張が上手くなるために訓練をすることは、たしかにとても前向きなことだと思いますが、今の自分の限界を認めてあげることも必要ではないでしょうか。

 

社交的な人の真似をする必要はないのではないでしょうか。

 

あなたは、むしろその内向性を活かすやり方のほうが、より建設的に過ごせるのではないでしょうか。

 

独りを味わう

 

実際に友達が多い人や、友達が多いことで恩恵を被れる人というのは、そういう才能がある人なのだと僕は思っています。

 

つまり、生まれ持ってそういう役割を担っているのでしょう。

 

幸か不幸か、あなたには別の役割があるのです。

 

ならば、社交的であるという役割は、その人たちに任せてはどうでしょうか。

 

そして、あなたはあなたの役割を果たすよう努めてはどうでしょうか。

 

あなたの役割。

 

それは、独りを味わうことを厭わないということです。

 

「独りを味わう」とはいっても、排他的になって他者を拒絶することとは違います。

 

それは望ましい結果となりにくいでしょう。

 

大切なことは、なるべく他を害さないということです。

 

より多くの人がプラスになるように行動することが理想的だと考えられているかもしれません。

 

しかし、これはなかなか実現困難な課題だと思います。

 

ならば今は、無理なくできる範囲で人を傷つけない態度で、独りで過ごしてみてはどうでしょうか。

 

これによって少しずつ、他者と必要最小限の協調を保ちながらも、自由な時間を確保するという絶妙の距離感をつかむかもしれません。

 

また、思った以上に独りの時間は楽しいということに気づくかもしれません。

 

もしくは、やはり独りは退屈だという結論に落ち着くかもしれません。

(もちろんそうであっても何も問題はありません。)

 

いずれにせよ、それはきっと、あなたにとって有意義な時間となることでしょう。

 

補足

 

僕の経験則から申しますと、無理に仲良くなろうとして「得た」友人は、たいていその場かぎりのものでした。

 

また、無理に仲良くなろうとする姿勢は、不自然さを生むものです。

 

せっかくの努力に水を差すようで申し訳ないのですが、その不自然さはかえって人を敬遠させるかもしれません。

 

本当に必要な友人というのは、仲良くなろうとせずとも、ときが来たなら自然と引き寄せ合うものです。

 

無理に何かを変えようとしなくても大丈夫です。

 

時の流れに身を任せましょう。

 

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それまで気にも留めていなかった。


庭に植わっているローズマリーに、心地よい香りがあることに気づいた。

 

その枝を3、4cmほど切ってみる。

 

そしてお湯に数分間浸し、お茶にして飲んでみる。

 

爽やかな香りと味が口内に広がる。

 

「うちの庭にもこんな宝があったのか。」

 

僕は再認識した。

 

あなたの宝

 

「自分には何も長所がないから、別人にならなければ。」

 

そう思って、外へ外へとないものねだりをしていた頃、僕は自分の内にある宝を宝と感じていなかった。

 

いや、その存在に見向きすらしていなかった。

 

「もっとスゴい人間になろう。」

 

どこかに違和感を感じながらも、成功哲学自己啓発が定義するような成功こそが宝だと、むやみに信じていたのかもしれない。

 

そのような「達成ゲーム」への虚しさを徹底的に味わい、人生への抵抗を手放したとき、僕は自分にある本当の宝の存在に気づいた。

 

もちろん、ときには自分にはないものを体験したいと、外に目を向けることも有意義かもしれない。

 

しかし、それはそれとして、僕たちには既に与えられている宝があるはずだ。

 

あなたにもきっとある。

 

それをあなた自身が否定する必要はないだろう。

 

たとえ、あなたのその宝の存在に対して都合が悪いと感じている誰かが、「そんなものはゴミだ。」と否定したとしてもだ。

 

今は宝だと思えなくていい

 

だが、もし自分にあるものが宝だと思えないなら、今はそれでいいのではないだろうか。

 

今のあなたは、まだそれを宝だと感じていないのだろう。

 

それが今の「あるがまま」なのだろう。

 

だから、それまでも否定する必要はないだろう。

 

無理に自分にわからせようとする必要はない。

 

偽りの納得や、ことさらに飾り立てた肯定の言葉は、今は邪魔なものかもしれない。

 

前提を疑う

 

だけど、誰かが「これが宝だ。」と決めた定義に疑問を感じるのなら、その前提から疑ってみてもいいのではないだろうか。

 

自分にとって、それは本当に価値を感じることなのだろうか。

 

自分にとって、それは本当に大切なことなのだろうか。

 

その答えは出なくていい。

 

答えを求めなくていい。

 

ただ淡々と問い続ければいい。

 

わかろうとしなくても、そのうちに自然とわかるときが来るだろう。

 

あなたの宝はあなたが決めていいのだ。

 

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自然と一体であるということ

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瞑想をしているとき、僕たちは自然と一体です。

 

自然はおそらく、区別も判断もしていないでしょう。

 

つまり、自然とは、思考から自由だということです。

 

ならば、自然はまったく無秩序かというと、それは違うと思います。

 

大自然にも大いなる意志があると感じるときはあります。

 

自然がそれそのままで美しく調和しているのは、やはり全体として何か法則性のような流れや動きを持っているからではないかと思うのです。

 

もし神や創造主と呼ばれるものが在るのなら(僕は在ってもいいと思っています。)、そうした働きを統べる何かなのかもしれません。

 

その大いなる意志による自然の営みは、我々人間が思考によって仕立てる小細工とは、まったく次元の違うものではないかと思うのです。

 

思考の小細工は意図的で、ときに非常に小賢しいものです。

 

たいてい、それらは自分たちに都合よくはからおうとします。

 

しかし、大自然の意志には、そのような小賢しさは見受けられません。

 

瞑想とは、思考の小細工から離れる時間なのです。

 

そのとき、僕たちもまた、連続的か断続的かは別として、思考から自由な瞬間を経験することでしょう。

 

つまり、その瞬間、僕たちは完全に自然の一部であるのです。

 

それは思考が止まるとか、思考が消えるということではありません。

 

もし思考を止めよう・消そうとするなら、それは思考の抑圧です。

 

それこそ小細工です。

 

僕たちは本当の意味で、思考によって思考を止めることはできないでしょう。

 

むしろ、瞑想は、動き続ける思考をなるべくそのままにするということです。

 

思考を自由にすることの中で、思考から自由になるのです。

 

そのとき、「私」という存在は、思考とは別のものであると気づくかもしれません。

 

では、そのように思考から自由になる瞬間を持ち、大自然と一体であるとき、僕たちにはどのような恩恵がもたらされるというのでしょうか。

 

もしかすると、あなたは大きな結果を望むかもしれません。

 

瞑想によって、劇的な変化があるのではないか。

 

神秘的で恍惚の気分になれるのではないか。

 

もしくは、何事にも動じない無の境地に至れるにちがいない。

 

たしかに、そのようになれる人もいるかもしれません。

 

が、そのような期待もまた、思考の小細工かもしれません。

 

瞑想がうまくできただろうか。

 

そうでないと、自然と一体になれないのではないだろうか。

 

あなたはそう思うかもしれません。

 

もちろん、うまくできたという手ごたえは快であるため、それを欲しがる気持ちはあって当然だと思います。

 

しかし、できた・できなかったという判断自体が思考ですから、それも自由にさせてあげたらよいのです。

 

できた・できなかったに関わらず、瞑想により坐していること自体が、すでに自然と一体なのです。

 

自然はそれそのままで美しいので、自分をことさらに美化しようとはしないでしょう。

 

だから何者かになろうともしないでしょう。

 

つまり、それそのままの自分でいられるということ。

 

それは、あるがままであるということ。

 

たとえ断続的な瞬間瞬間であったとしても、そうした自分を許容しているということ。

 

それが自然と一体であるということの恩恵なのではないでしょうか。

 

心は天気

天気は日々、移り変わります。

 

晴れの日があれば、雨や曇りの日もあります。

 

嵐や台風のように、大荒れのときだってある。

 

これだけ人間の科学技術が発達した現代においても、僕たちは天気を意のままに操作することはできません。

 

いくら僕たちが晴れてほしいと願ったとしても、実際晴れるかどうかは僕たちのコントロールを超えたところにあるのです。

 

僕たちが天気の前にできることといえば、たとえば雨が降ったら、傘を差したり雨宿りをしたりして、できるだけ濡れないように対処するぐらいではないでしょうか。

 

僕たちの心に対する関わり方も、それと同じようなものではないでしょうか。

 

僕たちの心もまた、いつも陽気であったり穏やかであるとはかぎりません。

 

ハイな気分のときもあれば、落胆したり怒りを感じたり、日々ころころと移ろうはずです。

 

それはあたかも天気のようです。

 

それに対して、心そのものを変えようとすることは、天気を変えようとすることと等しいのかもしれません。

 

天気への対処にならうのであれば、いちいち心を操ろうとするのではなく、心への反応の仕方などを見直すのが有効ではないかと僕は思います。

 

にもかかわらず、僕たちは心に関しては、自分の思いどおりにコントロールしたがるのかもしれません。

 

もしくは、コントロールできるものと信じて疑わないかもしれません。

 

それは苦しみを生むかもしれません。

 

行き過ぎたポジティブシンキングは、晴天ばかりを望むようなものではないでしょうか。

 

それは客観性を欠いた願望であり、曇天、雨天や荒天(つまりネガティブな心)に対して失礼であると僕は感じます。

 

晴天だけが天気ではないはずです。

 

むしろ曇天や雨天があるからこそ、自然界は循環するのです。

 

心もまた、それと同じではないでしょうか。

 

ポジティブとネガティブの間を循環することが、自然な心なのではないでしょうか。

 

ポジティブもネガティブも単なる一過性の状態であるということを知ったとき、あなたはそれらに対する特別な意味付けから、少しずつ解き放たれるかもしれません。

 

すると、あなたの心は真の意味で、健全に循環するのではないでしょうか。

 

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