本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

ただ暮らす ~真の豊かさ~

 

ただ暮らすこと。

 

それは、生活をするための衣食住を純粋にとり行うこと。

 

空腹を満たすための食事を摂ること

 

不快にならない程度の清潔さを保つこと

 

ほどよく快適に眠る環境を整えること

 

こうしたいわゆる何気ない日常の繰り返しを、ただ行うこと

 

このなかにこそ、真の豊かさがある。

 

とはいえ、私の言葉をスローガンのように覚えようとしないでほしい。

 

自分にわからせようとしなくていい。

 

ただ聴くだけでいい。

 

もし思考が、「『不快にならない程度の清潔さ』とは、どれぐらいのことを指すのか?」などとあなたに問うてきたとしても、

 

そのようなことは気にかけなくていい。

 

残念ながら、そこには適正数値などないからだ。

 

清潔にしようとせずに、清潔にすればいい。

 

華美さ・快適さを追求しない

 

おそらくあなたはおわかりかとは思うが・・・

 

ただ暮らすとは、生活に過剰な華美さ・快適さを求めることとまるで違う。

 

むしろ、簡素かつ質素に暮らすほうが、豊かさは感じられるだろう。

 

なぜなら、過剰な華美さや快適さを追求するとき、

 

私たちの心は生活そのものにではなく、

 

「いかにして生活を華美に・快適にしようか」ということにばかり注意が向くからだ。

 

このとき、生活そのものは置き去りにされ、

 

その美しさへの感受性は薄れることとなるだろう。

 

もしくは、その美しさはまるで見えなくなるだろう。

 

簡素・質素にとらわれない

 

もちろん、簡素や質素という言葉にとらわれないのがいい。

 

行きすぎた断捨離は要らない。

 

潔癖すぎる掃除もやめておいたほうがいい。

 

菜食以外一切禁止などといった、偏った食習慣もおすすめしない。

 

結局それらもまた、過剰な快適さの追求が形を変えたものにすぎない。

 

本当にただ暮らすだけでいい。

 

奇をてらわない

 

自分のライフスタイルをSNSで投稿しなくてもいい。

 

また、ユニークなライフスタイルを演出する必要もない。

 

奇をてらおうとする必要などまるでない。

 

ただ暮らすとは、人生を良くしようとするような余計なはからいを行わないこと。

 

生きるために衣食住を行うこと。

 

一つひとつに注意を置く

 

そして本当に大切なことは、

 

その「ごくあたりまえ」の衣食住を行うときに、

 

行うことの一つひとつにそっと注意を置くこと。

 

料理をするとき(難しいレシピは要らない)は、ただ料理をすること。

 

ニンジンを切るときは、ただニンジンを切ること。

 

計量カップに水を注ぐときは、ただ計量カップに水を注ぐこと。

 

野菜くずをゴミ箱に捨てるときは、ただ野菜くずをゴミ箱に捨てること。

 

本当にただそれだけ。

 

幸福は生きることそのもののなかにある

 

これを忍耐強く続けたとき、私たちは気づく。

 

華美さや快適さを追い求めることで、真の豊かさは、実は逃げていくのだということを。

 

ここまで何かを手に入れるために努力に努力を重ね、

 

その努力で得られるものは、結局はむなしさしかないということを心から理解したあなたなら、きっとこのことがわかるだろう。

 

幸福とは、華美さや快適さのなかにあるのではない。

 

達成した結果にあるのでもない。

 

生きることそのもののなかにある。

 

ただ暮らすことで、そのことが見えてくる。

 

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どうにもならないことを受け入れる


彼は言う。

 

どうにもならないことを、どうにもならないと認めること。

 

このように、どうにもならないということを受け入れるなかに、真の解放がある。

 

なぜなら、どうにもならないことに向けられていた私たちの注意は、それ以上そこに留め置かれる必要がないからだ。

 

私たちの意識は、これによって自由を取り戻す。

 

もし進みたいのなら、そこからまた一歩を踏み出すこともできる。

 

彼は続ける。

 

どうにもならないことを、都合のいいものに変えさせようとすること。

 

このように、どうにもならないことに抵抗すること。

 

現代ではこれが、ものごとの解決法だと信じられているのかもしれない。

 

しかしこれは、真の束縛である。

 

なぜならこれは、終わりなき戦いにほかならないからだ。

 

この戦いを降りないかぎり、私たちの注意はそこに固着することになるからだ。

 

私たちの心理的な時間は、そこで停滞することとなる。

 

彼は結ぶ。

 

これ以上努力できないほど努力してきたあなたは、きっと理解することだろう。

 

この世界で問題視されていることは、実は我々の力ではどうにもならないことばかりなのだということを。

 

本当の意味で、人間の意思でそれらを解決することは、できないのだということを。

 

思考にできることは、帳尻合わせと一時しのぎまでではないだろうか。

 

だから私たちは、ただ観るだけでいい。

 

そして、委ねていればいい。

 

うまくやろうとせず、ただ行為していればいい。

 

気づき続けていれば、気づきはおのずと私たちを、自らに適したところへ運んでくれるだろう。

 

そして問題だと思われていたことは、時の流れとともに形を変え、調和のなかに消えていくだろう。

 

それが自然の摂理。

 

そう。

 

人間の思考が問題を解決するのではない。

 

大自然がその自浄作用によって、問題を変容させるのだ。

 

瞑想録・社会への適応をやめたとき

 

彼は社会に適応するために、あらゆる努力を尽くしてきました。

 

自らの能力不足を補うために、自己啓発を行ってきました。

 

苦手だったコミュニケーションを円滑にするために、アサーティブの練習も重ねました。

 

こうしたいわゆる正攻法が功を奏しなかったので、スピリチュアルな方法も試みました。

 

それでもやはり、社会に適応できませんでした。

 

何度トライしても、結局は適応障害に落ち着くのです。

 

「もう適応できなくていいや」

 

とうとう彼は、社会に適応することをあきらめました。

 

自分は社会に適応できないのだと腹をくくったのです。

 

すると彼の心は、ずいぶんと楽になりました。

 

それからどれぐらい経った頃でしょうか。

 

相変わらず彼は、社会的には不全感を感じていました。

 

しかし、それは起こったのです。

 

彼は、社会は思考が作り上げた枠組みであるということを、はっきりと観たのです。

 

そして、その枠組みの外側に、無限の広がりを感じたのです。

 

それは人間社会さえも包括する、人間の思考には支配できない絶対的なもの。

 

彼は感じたのです。

 

「これが大自然か・・・」

 

・・・私たちは、大自然に包まれている。

 

この事実の前には、社会に適応できないことなどほんの些細なこと。

 

そして彼は、理解したのです。

 

社会が私たちを守るのではない。

 

大自然によって、私たちは既に守られている。

 

それは人間だけではない。

 

あらゆる生命が、そうなのだ。

 

たとえ社会的には不完全であったとしても、私たちは皆、生命としては完全円満。

 

何も足りないものなどない。

 

社会は絶対法などではない。

 

適応できない私が悪いのでもない。

 

もちろん、社会が間違っているのでもない。

 

単に私にとって社会が複雑すぎるので、

 

私が適応できないだけ。

 

それ以上でもそれ以下でもない。

 

この気づきの後も、やはり彼は社会に適応できないままです。

 

それでも彼は、さして問題だとは感じていません。

 

なぜなら、社会と言うものは単なる枠組みだと理解しているからです。

 

そして、その枠組みの外側にも、世界は無限に広がっているからです。

 

彼はこれを「大自然」と呼びましたが、呼び方なんて何でもいいのです。

 

いざとなれば、生きていける場所はいくらでもあるのだという理解があれば、それでじゅうぶんなのです。

 

だから彼は言います。

 

もしあなたがどんなに努めても社会に適応できないのなら、

 

適応しようと努力することをやめてもいいのかもしれない。

 

大層な洞察や気づきなどなくてもいい。

 

努力をやめるだけでも、ずいぶんと心理的負担は軽減するだろう。

 

そして覚悟さえあれば、きっとあなたはどこかで生きていけるだろう。

 

それは社会的には望ましい形ではないかもしれない。

 

しかし、あなたに適した形であることは間違いないだろう。

 

もちろんこれは、反社会的な行為を勧めているわけではない。

 

他者に配慮しなくていいと言っているわけでもない。

 

そもそも適応しないことと、反社会的であることはまるで違う。

 

反社会的行為とは、愚行の極みであることを、きっとあなたもおわかりだろう。

 

そして彼は、今日も坐るのです。

 

何も努力せずに。

 

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ポジティブであろうとしない


彼は一切、ポジティブであろうとしない。

 

彼は言う。

 

ポジティブであろうとするとき、

 

必ず意識の奥にはネガティブが併存している。

 

ネガティブな感情が苦痛だから、

 

その反対物のポジティブでそれを追い出そうとする。

 

もしくは相殺しようとする。

 

そうしたくなる気持ちはよくわかる。

 

実際、私もかつてはそうしてきた。

 

しかし。

 

この逆説の世界においては、反対物は解決策ではない。

 

ポジティブによって、ネガティブを駆逐することはできない。

 

なぜなら反対物は、その反対物と表裏一体だからだ。

 

ポジティブであろうとするとき。

 

同時に、ネガティブであってはならないという意識が働く。

 

そして無意識の領域には、裏腹にネガティブが膨張する。

 

それはネガティブにとらわれているということと実質的に同じ。

 

反対物を排除しようとするなら、

 

反対物もまた、それに対抗するために兵力を増強する。

 

そして、内面の争いは激化する。

 

それが自然の摂理。

 

彼は続ける。

 

なぜ私たちは、ポジティブであろうとするのか。

 

なぜあなたは、常にポジティブでなければならないのか。

 

なぜネガティブではいけないのだろうか。

 

人間として生きる以上、私たちは、ポジティブなときもあればネガティブなときもある。

 

むしろそれが、人間の自然な姿ではないだろうか。

 

ネガティブなときは、ネガティブなままでいればいいのではないだろうか。

 

しかし、あなたは言うだろう。

 

「そうは言っても・・・」

 

「ポジティブになろうとしないと、私の心はネガティブに支配されてしまう」と。

 

その主張はよくわかる。

 

それでもやはり、

 

いや、それだからこそ、

 

ポジティブであろうとしないのがいい。

 

きっとあなたはこれまでも、

 

ポジティブであろうと努力してきたのではないだろうか。

 

もしそうならば、それは感服に値する。

 

しかし、心というものは、あなたの一部であって、同時にあなたとは別の生き物でもある。

 

あなたは、自らの心がネガティブなとき、ネガティブであることを許容してこなかったのではないだろうか。

 

あるがままを認めてこなかったのではないだろうか。

 

そして、自分の心をポジティブにさせようとしてきたのではないだろうか。

 

あなたの心はあなたに反逆し、ますますネガティブであろうとするのではないだろうか。

 

ならばもう・・・

 

意識的にポジティブを起こそうとすることを、やめてみてはどうだろうか。

 

そして、自然と起こるネガティブにも、できるかぎりでそのままに感じてみてはどうだろうか。

 

これを忍耐づよく続けたとき。

 

あなたは、起きてくる感情がポジティブでもネガティブでも、どうでもよくなっていることだろう。

 

ポジティブやネガティブという分類を、いちいち気にかけていないことだろう。

 

ネガティブに占められていたあなたの心は、そこから健全に動き出すことだろう。

 

彼は言う。

 

私は一切、ポジティブであろうとしない。

 

なぜならここは、逆説の世界だから。

 

ポジティブであろうとするとき、ネガティブにとらわれ、

 

ネガティブであることを自分に許容するとき、ネガティブの束縛から自由になる。

 

そのとき、停滞していた心は生命を取り戻す。

 

そう。

 

それが自然の摂理。

 

何でもいい ~真の安楽~

 

何でもいい。

 

できるかぎりで自他を害さずに生きていけるなら何でも。

 

何でもいいし、どうでもいい。

 

とにかく頑張らない。

 

今、頑張らなくてもできることだけをやる。

 

もしくは何もしない。

 

いずれにせよ、今できないことはやらない。

 

ただそれだけ。

 

ああ、心地がいい。

 

しかし、それに水を差すように、思考はなかば強迫めいて言う。

 

「頑張らないと、人生で損をするぞ」

 

損をする・・・か。

 

かまわない。

 

踊らされるなら、踊ってあげよう。

 

奪われるなら、譲ってあげよう。

 

強迫するなら、存分に怖がってあげよう。

 

どうぞお好きなように。

 

損得とは今ここと、いつかどこかの何かを比較し、優劣の判断をくだしたもの。

 

そのような幻想に、いちいち取り合う必要もない。

 

我が身の処遇は大自然に委ねる。

 

ただ流れ漂う。

 

ああ、心地がいい。

 

そのときそれはやってくる。

 

「私という人間は、優秀でなければならない」

 

「他者とは積極的に交流しなければならない」

 

「人生では、何か大きなことを成し遂げなければならない」

 

このように、私の心は「こうあるべき」でがんじがらめだったが・・・

 

ああ、本当に何でもよかったんだな。

 

何でもいいということ。

 

それは、すべてを受け入れているということ。

 

そこには正解も間違いも存在しない。

 

いや、この身に起こることは、すべてが正解ともいえる。

 

そのとき彼の心は、空集合と化している。

 

精神的には何にも属していない。

 

同時にすべての一部でもある。

 

そして彼は、真の安楽に包まれている。

 

ただ生きるということ ~日常のなかの喜びに気づく~

 

どんなに成功や勝利を重ねても、ユートピアになどたどり着かない。

 

このことを完全に理解したとき。

 

おのずと、努力をして何かを勝ち取ろうという気が消失する。

 

そして、ただ生きるために生きる。

 

理想

 

 

信念

 

こうしたものを追求することをやめ、日々の生活を淡々ととり行う。

 

できないことを自分に無理にさせることをやめ、今の自分にできることだけをやる。

 

自分がやることに対していちいち目的など考えず、気持ちを込めずにただ行為する。

 

もしくは、疲れているときや休みたいときは、何もしない。

 

いつかそうなりたい自分にではなく、今ここにいる自分にだけ、そっと意識を置き続ける。

 

こうした日々を重ねる。

 

すると、不思議なことが起こる。

 

全然冴えない自分でも、心から「それでいいか」という気になる。

 

いつしか「それでいいか」は、「これがいいや」に変わっている。

 

今の自分をもっと良い自分に変えようなどという気が起こらなくなっている。

 

なぜなら、このようにただ生きるということは、本当の意味でとても楽だからだ。

 

このとき、心には模範とすべきものがない。

 

憧れの人もいない。

 

達成すべき目標もない。

 

生きるということ以外に人生の目的がない。

 

そして、それに満足している。

 

だから今の自分で何も問題がない。

 

これが楽でないはずがない。

 

こうした姿勢を現代の価値観では、怠惰とか無気力とか消極的とか呼ぶのかもしれない。

 

だからとても信じられないかもしれないし、信じなくていいのだが、

 

この姿勢で日々を送ると、生きることそのものの美しさが見えてくる。

 

そして、いつの間にか生活の一つひとつを丁寧に行っている自分がいることに気づく。

 

ここでいう丁寧とは、完璧にやろうとするとかきっちりやるとか、そんな表面的な意味ではない。

 

むしろそうしたうまくやるための丁寧さは、余計な窮屈さを生みかねない。

 

そうではなくて、丁寧とは、それをやっているときは、それだけしかしないということ。

 

ただそれに注意を払っているということ。

 

歩いているときは、ただ歩いている。

 

食べるときは、ただ食べている。

 

玄関を掃いているときは、ただ玄関を掃いている。

 

服を着ているときは、ただ服を着ている。

 

お茶を淹れているときは、ただお茶を淹れている。

 

全然うまくなんてできなくていい。

 

ただそれをやるだけでいい。

 

そこには、「何かができるようになるために」などという、二次的な目的がない。

 

純粋にただそれをしている。

 

そのとき、日々の暮らしは、目標達成のための通過点ではなく、それそのものが目的となる。

 

すると、衣食住などの日常には、奥深さやシンプルな楽しさがあることに気づく。

 

だから、非日常など求めなくなる。

 

刺激を探し求めてことさらにどこかへ行こうとする必要がなくなる。

 

そして、日々の暮らしそのもののすばらしさを感受することができる。

 

そのとき彼は理解する。

 

「何か目を引くような真新しいことやセンセーショナルなこと・・・そうした特別なことをしないと人生はつまらないと思っていたが、どうやらその考えは、まるで嘘だったようだ」と。

 

そう。

 

日常のなかにこそ、真の喜びがあふれている。

 

それもそのはず。

 

今ここにある、それそのものにのみ、美は存在するのだから。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

ただ気づき続ける


ただ気づき続ける。

 

何かをやろうとせず、

 

何かを起こそうとせず、

 

何かを振りほどこうとせず、

 

ただ気づき続ける。

 

呼吸に、

 

身体に、

 

心に、

 

ただ自分の内面に起こることに、気づき続ける。

 

何も目指そうとせず、

 

何も掴み取ろうとせず、

 

何も探そうとせず、

 

何も変えようとせず、

 

何も選ぼうとせず、

 

何も決めようとせず、

 

何も求めず、

 

ただ気づき続ける。

 

忍耐づよく、繰り返し繰り返し、気づき続ける。

 

寝ても覚めても気づき続ける。

 

24時間、気づき続ける。

 

生きているうちは、気づき続ける。

 

注意がそれてもかまわない。

 

それも含めて、気づき続ける。

 

何かに気づかなかったとしてもかまわない。

 

気づこうとせず、気づき続ける。

 

何も気づかなかったとしてもかまわない。

 

こうあるべきことを持たず、ただ気づき続ける。

 

できるかぎりで気づき続ける。

 

すると僕たちは、気づく。

 

いつのまにか、自分が望む場所に居ることに。

 

そこに行こうともがいていたときは、決してたどり着けなかったのに。

 

いや。

 

ここは、以前求めていた場所とは、また異質のところかもしれない。

 

だけど、たぶん前から本当に行きたかったのは、ここなのだろう。

 

そしてそれは、ここではないどこかではない。

 

たどり着いたのでもない。

 

前から居たのだった。

 

まさにここだった。

 

何だろう。

 

不思議だ。

 

ここはユートピアなんかではない。

 

まるでキラキラしていない。

 

でも、とても自然で穏やかだ。

 

無垢な安らぎだ。

 

そう。

 

気づき続けることで、僕たちは気づく。

 

僕たちには・・・

 

するべきことも、

 

起こらなければならないことも、

 

起こってはならないことも、

 

行くべきところも、

 

なるべき姿も、

 

実はそのようなものは、何もなかったのだ。

 

ただそれがあるというだけ。

 

そしてそれが美しい。

 

この理解は、幻を浮き彫りにする。

 

今ここ以外は、すべて幻。

 

幻を幻と理解することで、今ここが立ち現れる。

 

今ここは、それそのもの。

 

それそのものには、純粋な美しさがある。

 

追いかけるものもまた、幻。

 

今ここにないものを追いかけ回す心は、それそのものの美しさを取り逃がす。

 

それそのものの美しさは、追いかけることをやめた者のところに訪れる。

 

気づき続けること。

 

それは、幻からの解放。