本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

あるがままに観る

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マインドフルネス瞑想は、一言で申し上げるなら観察です。

 

視覚だけでなく、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感によって、もしくは「心の眼」によって、様々な対象を観察します。

 

それによって、感性が冴え、場合によっては第六感(直感やインスピレーションなどの心の働き)が活性化され、洞察や気づきに至るのではないかと僕は思っています。

 

この観察で大切な姿勢は、「あるがままに観る」ということです。

 

「あるがままに観る」とはどういうことでしょうか。

 

それは、思考の影響をなるべく受けずに観るということだと、僕は解しています。

 

「あるがままに観る」ことは難しい

 

しかし、「あるがままに観る」といっても、これを意識して行おうとすると、思考の罠にはまるかもしれません。

 

なぜなら、「あるがままに観よう」としている時点で、既に思考のフィルターに包まれながら観ているからです。

 

また、意識して行うと、かえってぎこちなくなるという人もいらっしゃるかもしれません。

 

僕もそうなのでよくわかります。

 

瞑想のマスターはどうか知りませんが、僕たちは100%思考の影響を受けずにものごとを認知するということは、心理学上はできないそうです。

 

「あるがままに観る」方法

 

では、どうすれば「あるがままに観る」という状態に近づけるのでしょうか。

 

それは、思考を思考と気づくことによって可能だと、僕は体感しました。

 

観察しているとき、たいていの場合、思考が勝手に湧き上がってくるでしょう。

 

これは、あなたのコントロールを超えているはずです。

 

おそらくこれを止めることはできないでしょう。

 

止めようとすると、あなたの心から反撃を喰らうでしょう。

 

また、これを払いのけようとすることも、できないはずです。

 

あなたの心から、激しい抵抗に遭うでしょう。

 

ですから、思考を排除しようとせず、ただ、それが思考であると認めるのです。

 

思考の内容には深入りせず、思考が起こったら、これは思考だと気づくだけでいいのです。

 

思考に引き込まれてもいい

 

もちろん、慣れないうちは、思考に引き込まれることもあるでしょう。

 

僕は今でも、しょっちゅう思考に巻き込まれ、流されます。

 

しかし、それでいいのです。

 

引き込まれたなら、引き込まれたと認め、再度、観察を続けます。

 

そして再び、思考に気づきます。

 

これを何度も繰り返します。

 

「できた・できなかった」は気になると思いますし、気になっていいのですが、大事なことはそこではないのです。

 

大切なのは、習慣的に行うことなのです。

 

これを忍耐強く継続することで、あなたは思考というものが単なる枠組みであるということに気づくかもしれません。

 

そして、その外側に世界が果てしなく拡がっていることを体感するかもしれません。

 

また、思考のフィルターの向こう側にある「あるがまま」が見えてくるかもしれません。

 

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感動できなくていい

ネットオープンカウンセリングのお時間です。

 

ここでは、僕が相談者様のお悩みに回答させていただきます。

 

なお、掲載にあたって、相談者様の事前承認を得ています。

 

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感動できない

 

(相談内容)

 

私は感動することができません。

 

友達が「感動した」と感想を述べる映画を見ても、感動が湧かないのです。

 

また、親戚の葬式でも泣いたことがありません。

 

私はひねくれた人間で、性格に何か欠陥があるんじゃないかと、自分を責めてしまいます。

 

どうしたら私も人と同じように感動できるでしょうか?

 

(回答)

 

ご相談ありがとうございます。

 

お気持ち、よくわかりますよ。

 

僕も以前はあなたと同じように感じていましたので。

 

映画「ショーシャンクの空に」を見ても、まるで感動しない。

 

多くの人が「感動した」と言いますが、本気で「え、どこが?」と思うのです。

 

「ワンピース」のチョッパーとヒルルク博士のエピソードも、感動できませんでしたね。

 

そのことを知人に伝えると、まるでそれが異常であるかのように、「大丈夫なの?」と言われたものです。

 

今考えると、大きなお世話だと思いますが(笑)

 

しかし、当時は自分の心にどこか「感動するべき」という思い込みがありましたので、感動できない自分を恥じていました。

 

感動できないことは問題か?

 

感動しないあなたは本当に「性格に欠陥がある」のでしょうか。

 

そもそもそれは、性格の問題でしょうか。

 

それは性格ではなく、感じ方によるものではないでしょうか。

 

感じ方も価値観も、人それぞれです。

 

そして、それらに善悪はないと僕は思っています。

 

また、感じ方はコントロールすることができません。

 

つまり・・・

・感動できるかどうかをもって「性格に欠陥がある」とはいえない。

・感動できないことは決して悪いことではない。

・今、その対象に感動できないことは、変えようのない事実である。

ということになるかと思います。

 

人と同じように「感動するべき」か?

 

また、ほかの人が感動しているからといって、本当に同じように「感動するべき」なのでしょうか。

 

感動とは、しなければいけないものなのでしょうか。

 

映画を鑑賞したら必ず感動しないといけないのでしょうか。

 

身内が亡くなったら必ず感涙しないといけないのでしょうか。

 

感動とはそのように押し売りされるものなのでしょうか。

 

僕は違うと思います。

 

心理学的見解からも明らかです。

 

それは「共感は大切・同情は不要」ということです。

 

共感と同情

 

共感とは、「相手と同じ感情を持ちましょう」ということではありません。

 

相手が「そうであること」に対して、「ああ、そうなのか」と認めることです。

 

相手と同じ感情を持とうとすることは、共感ではなく同情です。

 

このケースでは、あなたには自分に対する共感をお勧めします。

 

感動できない場面にある自分自身に対して、肯定も否定もせず、「感動しないんだな」と、ただ認める。

 

「感動するべき」という思考が起こったときは、「そうか、感動したいんだな」と認める。

 

これを続けることで、おそらくあなたは感動しないことを、「ただ、そうであること」と受け入れられるようになるでしょう。

 

また、同情は不要ということでしたね。

 

つまり、あなたはほかの人と同じように感動できなくても何も問題はないのです。

 

あなただから感動できるもの

  

逆を言えば、多くの人が感動しないものに対して、あなたは感動できるかもしれないのです。

 

あなただから感動できるものが、あるかもしれないのです。


もちろん、なかったとしても大丈夫ですが・・・

 

僕にもありました。

 

ショーシャンクの空に」や「ワンピース」には感動しませんでしたが、松阪桃李さん主演の映画「娼年」では、一回の視聴で二回感涙しました。

 

おそらく多くの人には理解できないと思いますが(笑)

 

また、感動の表現方法は人それぞれです。

 

泣くだけが感動の表現ではないということも、重ねてお伝えしたいと思います。

 

結論を申し上げると、あなたは「そのままでいい」のです。

 

補足になりますが・・・

 

「同情は不要」という心理学的見地をお伝えしましたが、人と同じように感動したいという慈悲の心はあなたの美点であると、僕は思います。

 

「感動するべき」という考えに同調することが問題なのであって、「感動したい」という想い自体は大切にしてもいいのではないでしょうか。

 

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「認める」ということ【洞察の詩】

僕は頻繁に、「認める」という言葉を用います。

 

それは、人間として健全に生きるうえで、この「認める」ということの重要性を体感してきたからです。

 

この言葉にあなたはどのような印象をお持ちでしょうか。

 

「認める」とは、困難なことでしょうか。

 

僕もかつては、難しい課題であると思っていました。

 

例えば、「彼の実力を認める」

 

この言葉をこのように使ったなら、どうでしょうか。

 

「積極的に肯定している」といった意味を含んでいるように感じるかもしれません。

 

その延長として、受け入れたくないものを「認めよう」としたらどうでしょうか。

 

それは場合によっては、自分の心に何かを強制するような重苦しさがあるかもしれません。

 

しかし僕は、今は「認める」の中にそのような意図的な要素を見出してはいません。

 

もしかすると、これから述べることは、「認める」の辞書的な意味とは異なるのかもしれません。

 

それでも僕は、瞑想の中で「認める」ということの真意をこのように感じ取ったのです。

 

「認める」とは、自然な注意を示す姿勢ではないでしょうか。

 

そこには積極性も消極性もありません。

 

それはただ、淡々としています。

 

対象を肯定も否定もしません。

 

なるべくそこに意味を加えません。

 

何かを理解しようとしたり、納得しようとはしません。

 

その詳細へのこだわりには注意を向けようとせず、その全体像が「在る」ことに意識を置きます。

 

一言で表すなら、「ただ、それが『在る』ということを知る」ということです。

 

これが正しいのか間違っているのか、僕にはわかりません。

 

しかし僕にはこれがしっくりくるのです。

 

これを「認める」という言葉で表すかどうかは別として、

 

この姿勢は、鍛錬としての瞑想であれ、生活の場であれ、あなたの気づきを助けることでしょう。

 

あなたが自分の内面を観察するとき。

 

あなたの心にある、あってはならないとして目を背けてきた、あなたの気質、考え、感情。

 

それらの細部に囚われることなく、それらの存在を知ることができるかもしれません。

 

そして、それらを許すことができるかもしれません。

 

「『認める』ことは癒しである」とは、そういうことなのです。

 

悟り

これは、悟りというものの一般定義を記したものではない。

 

そういうものを期待して読むなら、きっとがっかりすることだろう。

 

僕は悟りの正式な定義は知らないし、どうでもいい。

 

物質世界と精神世界の両方を懸命に生きてきた者の責務として、その半生から得られた所感を記させていただいた。

 

また、これは精神世界で陥りがちな罠に対する注意喚起でもあり、出家修行僧の生活を批判したものではないということはご留意いただきたい。

 

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悟りゲーム

 

聖人君子になることや、常にポジティブでいることが悟りなのだろうか。

 

神秘的な気分や恍惚に浸り続けることが悟りなのだろうか。

 

悟りとは、霊的に才能がある「選ばれし者」だけが得られる特別な状態なのだろうか。

 

どれも違うと僕は思う。

 

それらを目指すことは悟りゲームだ。

 

物質世界の達成ゲームが形を変えて、精神世界に現れただけだ。

 

それは新たな優越感を作り出すだろう。

 

僕はそのような別人になる努力には加担しない。

 

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悟りという名の自己否定

 

僕は思う。

 

悟りを特別視するものではない。

 

なろうとするものでもない。

 

究極的には、悟りを目指す時点でそれはもう悟りではない。

 

悟りに至ってはじめてあなたの人生が始まるのだとすれば、あなたがこれまで苦しみを感じながらも生きてきた時間は一体何だというのだ。

 

それもあなたの人生の一部ではないのか。

 

もちろん、そこから目を背けたくなる気持ちもじゅうぶんわかる。

 

そのような過去を好きにならなくてもいいと思う。

 

しかし、もし、「そんなものは自分の人生ではない」と否定するなら、自分にとって都合のいい状況だけが自分の人生だとするなら、精一杯生きてきた過去のあなたがあまりにも不憫ではないか。

 

悟りを求めて今という時間を犠牲にすること。

 

それは本末転倒だと思うし、そんな悟りは悟りではないと僕は思う。

 

悟りは愛と不可分だという。

 

ならば、あなたから今という時間を取り上げようとする、そんな麻薬のような悟りに果たして愛があるだろうか。

 

では、悟りとは?

 

自分のことをことさらに美化もしていないし、貶めもしていない。

 

ただ、自分はこうなのだと認めていること。

 

そして、自分に言い聞かせることなく、自分はそれでいいのだと体感していること。

 

もし、悟りというものがあるのなら、そういうことなのだと僕は思う。

 

都合のいい理想に合わせて自分を歪めるのではなく、今の自分をそのままの自分として徹底的に見つめること。

 

そこに悟りが「在る」のではないか。

 

それは、そうなろうと目指すものではなく、そのようにし続けた結果がそうであった、というものではないだろうか。

 

「狭い世界」で生きることもまた美しい

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マスコミのニュースでは、華々しい成果を上げた人がクローズアップされる傾向があるかと思います。

 

また、最近ではSNSで自分の生活をさらけ出す行為が一般的になっているように感じます。

 

そういう情報をよく目にするからでしょうか。

 

世界をまたにかけて活躍している人や著名人の生き方を見て、「なんてスケールが大きいんだ。」と羨むかもしれません。

 

そして、自分の生活と引き比べて、「自分はなんてちっぽけなんだ。」と卑下してしまうかもしれません。

 

「広い世界」に飛び出してチャレンジすることが「良い生き方」だと思ってしまうかもしれません。

 

世界の広さは人それぞれ

 

僕は、自分が生きるのに適した世界の広さは、人それぞれだと思っています。

 

ワールドワイドに活動することが向いている人もいるでしょう。

 

また、地方に密着して、そこに住む人々と暮らしていくことが適している人もいるでしょう。

 

ご近所さんの中で完結する生活で満足できる人もいるでしょう。

 

何がその人に合っているかというだけで、そこに「優劣」はないと僕は思います。

 

チャレンジの仕方も人それぞれ

 

「広い世界」に飛び出していくことだけがチャレンジなのでしょうか。

 

僕は違うと思います。

 

現代は多用性が認められつつあるとはいえ、金銭的に豊かになることや名誉を得ることを「成功」とみなす傾向は依然あるでしょう。

 

もちろんそれを目指すことは、非常に大きなチャレンジでしょう。

 

しかし、あなたがそのような「成功」を心から望んでいないのなら、もしくは、そのような「成功」が自分の手に負えないと悟ったのなら、別のチャレンジもあるのではないでしょうか。

 

あえてそのような「成功」を追求せず、あなたに見合った広さの世界で細々と生きることを選択することもまた、立派なチャレンジではないでしょうか。

 

たとえそこが「狭い世界」であったとしても、です。

 

成功の定義も人それぞれ

 

そもそも何が「成功」かは人によって違うのではないでしょうか。

 

自分が心の深い部分で何に価値を置いているのか。

 

自分は何をもって心が豊かだと感じられるのか。

 

それもまた人それぞれではないでしょうか。

 

井の中の蛙」という格言があります。

 

これは、単に「狭い世界」で生きることを指す言葉ではありません。

 

「狭い世界」で生きているという自覚がなく、そこでお山の大将になっていることを揶揄したものです。

 

だから、自覚があればいいのです。

 

「ここのみが世界のすべてではないのだ。」

「ここ以外にも果てしなく世界は広がっているのだ。」

 

そのことさえ知っていれば、「狭い世界」で生きることは何も問題はないのです。

 

自分の手の届く範囲で、自分の身の丈に合ったライフスタイルを送ること。

 

もしあなたにそれが適しているのなら、それもまた美しい生き方ではないでしょうか。

 

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今、折り合いがつけられない感情はあって当然

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前回記事で、感情と戦うのではなく、「折り合いをつける」という姿勢で臨むことを提案しました。

  

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ここで注意していただきたいことがあります。

 

それは、とにかく無理はしないでいただきたいということです。

 

今の段階で折り合いがつけられない感情があっても全然かまわないのです。

 

少しずつ、忍耐強く、自分の心と対話しながら実践しましょう。

 

また、向上心が高いあなたは、自分の中のすべての感情と折り合いをつけなければいけないと思うかもしれません。

 

しかし、その必要はないと僕は思っています。

 

今回は恐怖の感情を例に、詳しくお話ししたいと思います。

 

恐怖の回避

 

心理学の解説書やスピリチュアルの指南書において、恐怖に対する回避行動を戒める意見をよく目にされるかと思います。

 

「恐怖の回避に時間を費やすことが、建設的な行動を妨げているのだ。」

「だから、恐怖から逃げずにそのまま感じてみよう。」と。

 

これらの意見は、ある部分においては真だと思います。

 

しかし、この言葉の表面の意味に囚われてうのみにすると、自分を追い詰めて苦しむことになるかもしれません。

 

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 こんな経験はないでしょうか。

 

さきほどの言葉を「恐怖から逃げてはいけない。」と深刻にとらえ、今、手に負えないような強大な恐怖の対象にも真っ向から飛び込もうとする。

 

しかし、あまりの恐怖に、対象から逃げ出して自己嫌悪に陥る。

 

もしくは、死ぬほど怖くて心は激しく抵抗しているにもかかわらず、自分に無理にそれをさせる。

 

その結果、さほど成功体験を感じられないばかりか、恐怖がさらに深く心に刻まれる。

 

場合によっては、対象への恐怖をより強化し、「こんな取り組み二度としたくない。」と、さらに自分の殻に閉じこもる。

 

僕も経験がありますが、これはもう地獄のような苦行ですよね。

 

回避したい心はあっていい

 

そもそも回避は「悪」なのでしょうか。

 

逃走感情は、危険から身を守るために我々に備わった機能です。

 

ちゃんと目的があって、僕たちの心の中に存在しているものなのです。

 

だから「逃げ出したい」という気持ちはあっていいのです。

 

感じ方の事実を認める

 

また、今、あなたがその対象を危険だと強く感じていることは事実なのです。

 

その感じ方のもととなる思い込みが、建設的であろうと非建設的であろうと。

 

また、その思い込みが過去の記憶によるものであり、本当は命が奪われるような危険ではないと理屈では知っていても。

 

それとは別に、あなたがそれに強い恐怖を感じているという事実だけは、認めてあげてもいいのではないでしょうか。

 

それほどあなたの心は傷を負っているということではないでしょうか。

 

認めることは癒しです。

 

今は自分を癒す時間が必要なのではないでしょうか。

 

潜在意識の抵抗は強力

 

心に関することは、理性だけではどうにもならないときだってあるのです。

 

これまで、その思い込みを思考で正そうとチャレンジしてきたあなたなら、そろそろ感じているのではないでしょうか。

 

「この理屈を超えた恐怖は、理性だけで太刀打ちできるような生易しいものではないのかもしれない。」と。

 

僕は思います。

 

脳の5%ほどの顕在意識にある理性だけで、95%の潜在意識にある思い込みをどうにかしようとするのは無謀だと。

 

それほど潜在意識の抵抗は強力なのです。

 

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今は逃げていい

 

だから今は、それほど強力な抵抗を起こさせるほどの恐怖の対象からは、逃げればいいのだと僕は思います。

 

「今は手に負えないから逃げるのだ。」と自覚したうえで、堂々とそこから離れればいいのではないでしょうか。

 

ものごとには段階があるのです。

 

段階とは、「優劣」をつけるための物差しではなく、自分の成長度合いを示すバロメーターなのです。

 

あなたは生まれてすぐに歩けたり話せたりしたわけではないはずです。

 

同様に、今、その恐怖と折り合いがつけられなくても、何の問題もないのです。

 

今はそれは脇に置いて、折り合いがつけられそうな、あなたにとっての小さな恐怖から少しずつチャレンジしていってはどうでしょうか。

 

これを積み重ねていけば、いつかはその恐怖とも折り合いがつけられる日が来るかもしれません。

 

もしその日が来なかったとしても、少しくらい回避し続ける対象があったっていいのではないでしょうか。

 

常に立ち向かうだけが人生ではないと僕は思います。

 

努力はたしかに美しいと僕も思いますが、どうにも耐えられないものから逃げることも立派な生存戦略ではないでしょうか。

 

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感情とは折り合いをつけるもの

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よく、感情を「克服する」という表現を見かけます。

 

おそらく、苦手意識によって囚われていた感情があったが、その感情に心悩まされなくなったというような意味なのでしょう。

 

「克服」の言葉の意味を見てみましょう。

 

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克服

[名](スル)努力して困難にうちかつこと。(出典:デジタル大辞林

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前向きで力強い言葉だと感じます。

 

しかし、自分の心との関わりを長年模索してきた僕は、感情に対してこの言葉を使うのは少し違うのではないかと思うのです。

 

感情との戦いを想起させる

 

もちろん、これは善い・悪いの問題ではありません。

 

この言葉があなたにとってしっくりきているなら、ぜひ使っていただければと思います。

 

ここは僕のこだわりといいますか、細かいニュアンスの話になってきます。

 

ですから気にならない人は、この記事を読み飛ばしてもらって構いません。

 

「克服」という言葉から、僕は感情との戦いを連想するのです。

 

何か感情に「ここではこうあるべき」という正解があって、それと違う状態になっているから正そうという意図を感じるのです。

 

もちろん、その感情によって行動が制限され、実際に不自由を感じているのかもしれません。

 

それは非常に不快なことと察します。

 

だから、それを正したいという気持ちは痛いほどよくわかります。

 

しかし、心というのは「こうあるべきではない」と思えば思うほど、正そうとすればするほど、その傾向を強めるものなのです。

森田療法ではこれを「精神交互作用」と言います。)

 

 

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戦いではなく調和を

 

心を思い通りにコントロールしたくなるのは人情でしょう。

 

実際、そのようにできるのではないかと感じるかもしれません。

 

ですから、心を力づくでねじ伏せたくなるかもしれません。

 

しかし、心と戦うことは非効率的な関わり方であるということは、このブログで一貫してお伝えしているところです。

 

もちろん、そのような関わり方がうまくいっているのだという人は、そのようにしていただいていいと思います。

 

もう心との泥沼の戦いに疲れたのなら、心と調和を図ってみるのもいいのではないでしょうか。

 

僕は、感情とは「克服する」ものではなく、「折り合いをつける」ものだと思っています。

 

その感情の居場所を作ってあげて、起こるまま・去るままにさせるのです。

 

もちろん、なすがままになるのではなく、同調するかどうかは我々が選ぶ。

 

すると、感情のほうも段々と、僕たちへの接し方を変えてくるでしょう。

 

言うほど簡単ではないことはよくわかっています。

 

何度も何度も繰り返し実践が必要でしょう。

 

しかし、感情との不毛な戦いに比べれば、数段楽だと僕は思います。 

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