本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

友達は多いほどいいという嘘

僕はこの記事を、人間関係に対して苦手意識がある一方で、「社交的でなければならない」と考えて、内向的な自分を否定してしまう人に向けて書きます。

 

それ以外の方には、おそらく参考にはならないだろうと思います。

 

そのことをご理解のうえ、閲覧くだされば幸いです。

 

f:id:hamamon91:20201004151621j:plain

 

あなたは子供の頃、大人たちから「友達は多いほどいい」というような考えを教わったかもしれません。

 

そして、そのことを真に受けて、必死に人と仲良くしようと努めたかもしれません。

 

もちろんそのようにすることで心豊かに過ごせている人もいることでしょう。

 

しかし、どこか無理をして苦しかったり、自分に嘘を付いているような違和感があるのなら、一度立ち止まってみてはどうでしょうか。

 

その考えを疑ってみてはどうでしょうか。

 

友達は少なくてもいい

 

結論から申し上げます。

 

「友達は多いほどいい」というのは嘘です。

 

僕はこれを、根拠のない非論理的意見であると思っています。

 

嘘とまで言い切るのは乱暴に聞こえた方もいらっしゃるかもしれません。

 

たしかに、中には心から「友達は多いほどいい」と感じている人もいらっしゃるでしょう。

 

しかし、誰にでも当てはまるわけではないという点から見て、論理的に「真」ではないということです。

 

真実を述べると、「友達は多くても少なくてもいい」のです。

 

つまり、友達は少なくてもいいのです。

 

もちろん、多いほうがいいと心から感じる人は、友達作りに励んでもいいのです。

 

しかし、内向的なあなたが、そんなイバラの道を選択する必要があるでしょうか。

 

あなたにとって、無理して友達を作ろうとすることは、大きなストレスではないでしょうか。

 

友達が多いことのデメリット

 

また、仏経典「スッタニパータ」のなかで、ブッダも同様のことを述べたとあるのですが、友達が多いということは、しがらみが多いということでもあります。

 

しっかり自己主張ができる人なら、そんな状態でもある程度自由に過ごせるかもしれません。

 

もしくは、多少自由が制限されたとしても、それ以上に充実感が勝るかもしれません。

 

しかし、あなたにとっては束縛となり得るかもしれません。

 

自己主張が上手くなるために訓練をすることは、たしかにとても前向きなことだと思いますが、今の自分の限界を認めてあげることも必要ではないでしょうか。

 

社交的な人の真似をする必要はないのではないでしょうか。

 

あなたは、むしろその内向性を活かすやり方のほうが、より建設的に過ごせるのではないでしょうか。

 

独りを味わう

 

実際に友達が多い人や、友達が多いことで恩恵を被れる人というのは、そういう才能がある人なのだと僕は思っています。

 

つまり、生まれ持ってそういう役割を担っているのでしょう。

 

幸か不幸か、あなたには別の役割があるのです。

 

ならば、社交的であるという役割は、その人たちに任せてはどうでしょうか。

 

そして、あなたはあなたの役割を果たすよう努めてはどうでしょうか。

 

あなたの役割。

 

それは、独りを味わうことを厭わないということです。

 

「独りを味わう」とはいっても、排他的になって他者を拒絶することとは違います。

 

それは望ましい結果となりにくいでしょう。

 

大切なことは、なるべく他を害さないということです。

 

より多くの人がプラスになるように行動することが理想的だと考えられているかもしれません。

 

しかし、これはなかなか実現困難な課題だと思います。

 

ならば今は、無理なくできる範囲で人を傷つけない態度で、独りで過ごしてみてはどうでしょうか。

 

これによって少しずつ、他者と必要最小限の協調を保ちながらも、自由な時間を確保するという絶妙の距離感をつかむかもしれません。

 

また、思った以上に独りの時間は楽しいということに気づくかもしれません。

 

もしくは、やはり独りは退屈だという結論に落ち着くかもしれません。

(もちろんそうであっても何も問題はありません。)

 

いずれにせよ、それはきっと、あなたにとって有意義な時間となることでしょう。

 

補足

 

僕の経験則から申しますと、無理に仲良くなろうとして「得た」友人は、たいていその場かぎりのものでした。

 

また、無理に仲良くなろうとする姿勢は、不自然さを生むものです。

 

せっかくの努力に水を差すようで申し訳ないのですが、その不自然さはかえって人を敬遠させるかもしれません。

 

本当に必要な友人というのは、仲良くなろうとせずとも、ときが来たなら自然と引き寄せ合うものです。

 

無理に何かを変えようとしなくても大丈夫です。

 

時の流れに身を任せましょう。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

f:id:hamamon91:20201004143615j:plain

 

それまで気にも留めていなかった。


庭に植わっているローズマリーに、心地よい香りがあることに気づいた。

 

その枝を3、4cmほど切ってみる。

 

そしてお湯に数分間浸し、お茶にして飲んでみる。

 

爽やかな香りと味が口内に広がる。

 

「うちの庭にもこんな宝があったのか。」

 

僕は再認識した。

 

あなたの宝

 

「自分には何も長所がないから、別人にならなければ。」

 

そう思って、外へ外へとないものねだりをしていた頃、僕は自分の内にある宝を宝と感じていなかった。

 

いや、その存在に見向きすらしていなかった。

 

「もっとスゴい人間になろう。」

 

どこかに違和感を感じながらも、成功哲学自己啓発が定義するような成功こそが宝だと、むやみに信じていたのかもしれない。

 

そのような「達成ゲーム」への虚しさを徹底的に味わい、人生への抵抗を手放したとき、僕は自分にある本当の宝の存在に気づいた。

 

もちろん、ときには自分にはないものを体験したいと、外に目を向けることも有意義かもしれない。

 

しかし、それはそれとして、僕たちには既に与えられている宝があるはずだ。

 

あなたにもきっとある。

 

それをあなた自身が否定する必要はないだろう。

 

たとえ、あなたのその宝の存在に対して都合が悪いと感じている誰かが、「そんなものはゴミだ。」と否定したとしてもだ。

 

今は宝だと思えなくていい

 

だが、もし自分にあるものが宝だと思えないなら、今はそれでいいのではないだろうか。

 

今のあなたは、まだそれを宝だと感じていないのだろう。

 

それが今の「あるがまま」なのだろう。

 

だから、それまでも否定する必要はないだろう。

 

無理に自分にわからせようとする必要はない。

 

偽りの納得や、ことさらに飾り立てた肯定の言葉は、今は邪魔なものかもしれない。

 

前提を疑う

 

だけど、誰かが「これが宝だ。」と決めた定義に疑問を感じるのなら、その前提から疑ってみてもいいのではないだろうか。

 

自分にとって、それは本当に価値を感じることなのだろうか。

 

自分にとって、それは本当に大切なことなのだろうか。

 

その答えは出なくていい。

 

答えを求めなくていい。

 

ただ淡々と問い続ければいい。

 

わかろうとしなくても、そのうちに自然とわかるときが来るだろう。

 

あなたの宝はあなたが決めていいのだ。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

hamamon91.hatenablog.com

 

自然と一体であるということ

f:id:hamamon91:20200912020055j:plain

 

瞑想をしているとき、僕たちは自然と一体です。

 

自然はおそらく、区別も判断もしていないでしょう。

 

つまり、自然とは、思考から自由だということです。

 

ならば、自然はまったく無秩序かというと、それは違うと思います。

 

大自然にも大いなる意志があると感じるときはあります。

 

自然がそれそのままで美しく調和しているのは、やはり全体として何か法則性のような流れや動きを持っているからではないかと思うのです。

 

もし神や創造主と呼ばれるものが在るのなら(僕は在ってもいいと思っています。)、そうした働きを統べる何かなのかもしれません。

 

その大いなる意志による自然の営みは、我々人間が思考によって仕立てる小細工とは、まったく次元の違うものではないかと思うのです。

 

思考の小細工は意図的で、ときに非常に小賢しいものです。

 

たいてい、それらは自分たちに都合よくはからおうとします。

 

しかし、大自然の意志には、そのような小賢しさは見受けられません。

 

瞑想とは、思考の小細工から離れる時間なのです。

 

そのとき、僕たちもまた、連続的か断続的かは別として、思考から自由な瞬間を経験することでしょう。

 

つまり、その瞬間、僕たちは完全に自然の一部であるのです。

 

それは思考が止まるとか、思考が消えるということではありません。

 

もし思考を止めよう・消そうとするなら、それは思考の抑圧です。

 

それこそ小細工です。

 

僕たちは本当の意味で、思考によって思考を止めることはできないでしょう。

 

むしろ、瞑想は、動き続ける思考をなるべくそのままにするということです。

 

思考を自由にすることの中で、思考から自由になるのです。

 

そのとき、「私」という存在は、思考とは別のものであると気づくかもしれません。

 

では、そのように思考から自由になる瞬間を持ち、大自然と一体であるとき、僕たちにはどのような恩恵がもたらされるというのでしょうか。

 

もしかすると、あなたは大きな結果を望むかもしれません。

 

瞑想によって、劇的な変化があるのではないか。

 

神秘的で恍惚の気分になれるのではないか。

 

もしくは、何事にも動じない無の境地に至れるにちがいない。

 

たしかに、そのようになれる人もいるかもしれません。

 

が、そのような期待もまた、思考の小細工かもしれません。

 

瞑想がうまくできただろうか。

 

そうでないと、自然と一体になれないのではないだろうか。

 

あなたはそう思うかもしれません。

 

もちろん、うまくできたという手ごたえは快であるため、それを欲しがる気持ちはあって当然だと思います。

 

しかし、できた・できなかったという判断自体が思考ですから、それも自由にさせてあげたらよいのです。

 

できた・できなかったに関わらず、瞑想により坐していること自体が、すでに自然と一体なのです。

 

自然はそれそのままで美しいので、自分をことさらに美化しようとはしないでしょう。

 

だから何者かになろうともしないでしょう。

 

つまり、それそのままの自分でいられるということ。

 

それは、あるがままであるということ。

 

たとえ断続的な瞬間瞬間であったとしても、そうした自分を許容しているということ。

 

それが自然と一体であるということの恩恵なのではないでしょうか。

 

心は天気

天気は日々、移り変わります。

 

晴れの日があれば、雨や曇りの日もあります。

 

嵐や台風のように、大荒れのときだってある。

 

これだけ人間の科学技術が発達した現代においても、僕たちは天気を意のままに操作することはできません。

 

いくら僕たちが晴れてほしいと願ったとしても、実際晴れるかどうかは僕たちのコントロールを超えたところにあるのです。

 

僕たちが天気の前にできることといえば、たとえば雨が降ったら、傘を差したり雨宿りをしたりして、できるだけ濡れないように対処するぐらいではないでしょうか。

 

僕たちの心に対する関わり方も、それと同じようなものではないでしょうか。

 

僕たちの心もまた、いつも陽気であったり穏やかであるとはかぎりません。

 

ハイな気分のときもあれば、落胆したり怒りを感じたり、日々ころころと移ろうはずです。

 

それはあたかも天気のようです。

 

それに対して、心そのものを変えようとすることは、天気を変えようとすることと等しいのかもしれません。

 

天気への対処にならうのであれば、いちいち心を操ろうとするのではなく、心への反応の仕方などを見直すのが有効ではないかと僕は思います。

 

にもかかわらず、僕たちは心に関しては、自分の思いどおりにコントロールしたがるのかもしれません。

 

もしくは、コントロールできるものと信じて疑わないかもしれません。

 

それは苦しみを生むかもしれません。

 

行き過ぎたポジティブシンキングは、晴天ばかりを望むようなものではないでしょうか。

 

それは客観性を欠いた願望であり、曇天、雨天や荒天(つまりネガティブな心)に対して失礼であると僕は感じます。

 

晴天だけが天気ではないはずです。

 

むしろ曇天や雨天があるからこそ、自然界は循環するのです。

 

心もまた、それと同じではないでしょうか。

 

ポジティブとネガティブの間を循環することが、自然な心なのではないでしょうか。

 

ポジティブもネガティブも単なる一過性の状態であるということを知ったとき、あなたはそれらに対する特別な意味付けから、少しずつ解き放たれるかもしれません。

 

すると、あなたの心は真の意味で、健全に循環するのではないでしょうか。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

やろうとせずにやる

f:id:hamamon91:20200909225659j:plain

 

「やる気を出しましょう。」

 

あなたはかつて、このように鼓舞されたかもしれません。

 

その言葉に従い、本当はやる気がないにもかかわらず、自分の中から無理矢理にやる気を絞り出そうとした方もいらっしゃるかもしれません。

 

そして、そのようにやる気を出そうとすることで、へとへとに疲れた方もいらっしゃるかもしれません。

 

その割に、はかどった気がせず、いら立ちをおぼえた方もいらっしゃるかもしれません。

 

心を無理に動かそうとするとエネルギーを浪費する

 

マインドフルネスの実践においては、心をいじくろうとはしません。

 

心との関わり方を見直そうとするときは、心を変えようとするのではなく、注意の向け方や行動を調整します。

 

これを日常生活に応用するなら、実は、やる気を出そうとすることは、非建設的な心との関わり方であるということに気づくかもしれません。

 

やる気は、出そうとして出せるものではないと僕は思っています。

 

それは波があって当然であり、出るときは自然に出るというものではないでしょうか。

 

ですから、やる気がないときにやる気を出そうとすることは、自分の心を駆り立てているということなのかもしれません。

 

それは、自分の心を無理に動かそうとしているということなのかもしれません。

 

それによって、心は抵抗するかもしれません。

 

目に見えた抵抗はなかったとしても、必要以上にエネルギーを消費することは間違いないでしょう。

 

やる気はなくても行動はできる

 

では、やる気がないときはどうすればいいのでしょうか。

 

やる気を出そうとするとエネルギーの浪費になるなら、やらない方がいいのでしょうか。

 

結論から申し上げると、やってもやらなくてもいいと思います。

 

それがやる必要のない行動なら、やらなくてもいいでしょう。

 

しかし、それをやらないと自分や周囲が困る等で、やる必要のある行動なら、やればいいと思います。

 

このとき、ひとつ誤解のないように申し上げておきたいのは、やる気はなくても行動はできるということです。

 

やる気がないからといって、やる気を出そうとする必要はないのです。

 

また、やる気が出るまで待つ必要もありません。

 

もちろん焦る必要はないのですが、おそらく待っていても、なかなかやる気は出ないでしょう。

 

ですから、やる気がなくても、やる気を出そうとせずにやればいいのです。

 

つまり、やろうとせずにやればいいのです。

 

淡々とやるとは、こういうことなのです。

 

今まで自分の心を駆り立てることに慣れてきた人であれば、本当にこれで大丈夫かと不安を感じるかもしれません。

 

もしくは、つい自分の心に鞭打つときもあるかもしれません。

 

しかし、それで構いません。

 

それも含めて、淡々とやり続けることが大切なのだと僕は思います。

 

そうすることで、やろうとせずにやるという姿勢が身につくことでしょう。

 

そのときあなたはきっと、自分の心を無理に動かそうとするよりも、淡々とやるほうが、ものごとを効率よく執り行えるということに気づくことでしょう。

 

hamamon91.hatenablog.co

 

hamamon91.hatenablog.com

 

それはそれというだけ

それはただ、それというだけ。

 

それ以上でもそれ以下でもない。

 

そこには本来、意味はない。

 

それを特別なものに細工したがるのは、僕たちの心の仕業なのかもしれない。

 

しかし、それを特別だと思う心もまた、そうであるというだけ。

 

それを細工することもまた、そうであるというだけ。

 

それはただ、それというだけ。

 

ある権力者は言う。

 

「私がカラスは白いと言ったら、カラスは白いのだ。」と。

 

その言葉は、そうであるというだけ。

 

もし、その言葉にかかわらず、本当にカラスが白く見えるなら、カラスは白いのだろう。

 

しかし、本当はあなたの網膜には白く映っていないのなら、どうだろう。

 

あなたに見えたものではなく、その言葉が真であるとして、カラスを白いと思い込もうとするなら、どうだろう。

 

そこには、葛藤があるかもしれない。

 

その苦しみもまた、それというだけ。

 

観たまま。

 

感じるまま。

 

あるがまま。

 

それをそれとして認めた先には、何があるだろうか。

 

そこにあるのは、「思考で作られた『正しさ』は幻想である」という気づきかもしれない。

 

そしてそれもまた、それというだけ。

 

すべてはどこまでも、それというだけ。

 

しかし、それはそれでしかないというのもまた、味気ないものかもしれない。

 

ときには、ものごとを思考というスパイスで味付けするのもいいかもしれない。

 

「有意義」とは、そういうことかもしれない。

 

そしてそれもまた、それというだけ。

 

hamamon91.hatenablog.com 

hamamon91.hatenablog.com

 

蜉蝣(かげろう)の亡骸

何日前からだろうか。

 

僕の部屋の窓ガラスの外側に、カゲロウの亡骸が張り付いている。

 

白く透明で、無機質な物体だ。

 

張り付いているというより、まるで魂が身体から突然抜け出し、そのままそこに居るかのようだ。

 

苦しんだような様子も伺えず、死がごく日常的なことであるかのように、そこに佇んでいる。

 

何にも抗おうとしていないように。

 

なぜ僕はこの亡骸がこんなに愛おしいのだろうか。

 

窓から取り除こうという気にならない。

 

これはきっと、感傷的な何かにちがいない。

 

カゲロウは幼虫として、2~3年を水中で過ごすという。

 

おそらくその中で、成虫になれるものはごく一握りだろう。

 

そして、羽化をして成虫になり、自由に飛べるようになったとしても、成虫として生きられるのはわずか一日、いや、実際には数時間らしい。

 

その一生を知っているから、こんなに寂しく愛らしいのだろうか。

 

たしかに儚い命に対する感傷は、大いにあるのだろう。

 

いや、この一生を「儚い」なんて言葉で片づけるのは、僕の傲慢かもしれない。

 

カゲロウにとっては大きなお世話なのかもしれない。

 

君は、僕よりはるかに短い一生を、懸命に生きたんだろう。

 

自分の一生に何も意味付けをせず、運命に疑問も持たず、ただ淡々と、命を燃やし尽くしたんだろう。

 

そしてここで、君は死を受け入れて、魂はどこかに召されたんだろう。

 

僕は人間だから、そんなふうには生きられないだろうな。

 

もちろん、魂が抜け落ちて物質となった彼に、この言葉は届かないにちがいない。

 

この想いが感傷でも傲慢でも、大きなお世話でもかまわない。

 

風雪などで流れ落ちるまでは、いつまでもそこに居させてあげたい。

 

hamamon91.hatenablog.com