本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

植物に学ぶ「使命」

スピリチュアルなどで、「使命」という言葉を耳にするかと思います。

 

これまで自分の人生に生きがいを感じられなかった人なら、この言葉を重く受け止めるかもしれません。

 

どこかに生前から約束された「天職」のようなものがあるのではないか。

 

それによって他者に貢献することで、このつまらない人生から脱することができるのではないか。

 

だから、早く「使命」を見つけなければならない。

 

そう焦ってしまうかもしれません。

 

僕もそう思っていた時期があったので、よくわかります。

 

たしかにそのような「使命」が見つかれば、充実した人生が送れそうな気がしますよね。

 

実際に「天職」と呼べるような職に就いて、幸せそうに日々を過ごしている人を目にしたことがあるかもしれません。

 

これまでの人生をつまらないと感じていた人であれば、「使命」に憧れを抱くのは、ごく自然な気持ちであると僕は思います。

 

しかし僕はあなたに、焦らなくても大丈夫だとお伝えしたいと思います。

 

究極的には、「使命」を見つけようと努力しなくてもいいと思っています。

 

今、「できること」を淡々とやり続ける姿勢が、おのずと「使命」に結びついている。

 

僕はそう思っています。

 

今回は、自然界の植物を例に取り、このことをご説明したいと思います。

 

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光合成


植物は光合成をします。

 

それによって、酸素が発生します。

 

僕たち人間は、その恩恵にあずかり、呼吸をすることができます。

 

いえ、人間だけではありません。

 

呼吸を必要とする生命すべてが、それによって生きることができるのです。

 

誰かのためにやっているのか?

 

では、植物は「よし、私が皆のために役に立ってやろう。」と意気込んで光合成をしているのでしょうか。

 

残念ながら、僕には植物に大いなる意志があるのかどうかもわかりませんし、仮にあったとしても、僕にはそれを知るよしもありません。

 

だからこれは推測なのですが、恐らく個々の植物にそうした意図はないでしょう。

 

自分のためにやっている

 

光合成の本来の目的は何でしょうか。

 

酸素を生成して、皆を生かすことでしょうか。

 

僕は違うと思います。

 

個々の植物にとって光合成とは、光エネルギーを利用し、水と二酸化炭素から炭水化物を作り出すことが、その本当の目的ではないでしょうか。

 

それは自分の「体」を生長させるためであり、ひいては「果実」や「種子」を作り、脈々とその命を引き継いでいくために行っていることなのでしょう。

 

つまり、植物目線で見ると、自分のために行っていることなのです。

 

結果的に他の役にも立っている

 

じゃあそれは自分のためにしかなっていないのでしょうか。

 

違いますよね。

 

最初に申し上げたように、副産物として酸素を発生させます。

 

それは自分たちの呼吸だけでなく、他の生物たちの呼吸にも使われます。

 

また、植物の「体」「果実」「種子」を、我々人間も含めた動物、鳥、虫などが食すことによって、他の生命の糧ともなっているのです。

 

自分のためにやっていることが、結果的に他の役にも立っているのです。

 

ただ淡々と

 

繰り返しになりますが、植物たちには「これが私たちの使命なのだ。」という力みなどないでしょう。

 

「私たちは地球を救っているのだ。」と、自分たちの偉業をことさらに顕示もしていないでしょう。

 

「私たちはもっとすごいこともできるはずだ。」と、無理な成長を試みようともしていないはずです。

 

ただ、自分たちに適した場所で生息し、淡々と自分たちにできること(光合成)を行っているのです。

 

これこそが自然体なのではないでしょうか。

 

自分が今、「できること」を

 

この姿勢は、僕たち人間も学ぶところがあるように思います。

 

僕たちの肥大化した思考は、偉大であると同時に、純粋さから遠ざかっているように感じます。

 

僕も陥りがちなのですが、自分がしていることを「大層なこと」と特別視したくなることがあります。

 

「使命」とは、自分にしかできないことなのだと、「すごいこと」をやろうと欲することもあるかもしれません。

 

 もしくは、「利他」という言葉に囚われてしまい、主に義務感から、自分を差し置いて他者に奉仕しようとするかもしれません。

 

もし、本心ではそうすることが重苦しく窮屈なら・・・

 

僕は生きるということを、美化しなくてもいいのではないかなと思います。

 

植物のように、

 

ただ、自分のために、

 

自分に適した環境で、

 

自分が今「できること」を淡々とやること。

 

それで充分ではないかと思います。

 

それは結果的に、誰かの・何かの役に立っているはずです。

 

真の他者貢献とは、そういうことではないかと思うのです。

 

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結果がコントロールできない理由

僕はこのブログで何度か「結果はコントロールできない」と述べてきました。

 

これは努力を否定するものではなく、現代社会で陥りがちな「悪あがき」から距離を置くための知恵としてお伝えしているものです。

 

そして、真に言いたいことは、「結果に無関心になりましょう。」ということではなく、結果をより望ましいものにしたいのなら、行動をコントロールして働きかけるという体感が大切なのだということも、強調しているところです。

 

結果ではなく行動をコントロールする。

 

完璧主義で苦しむ人にとって、この感覚は非常に重要だと僕は感じています。

 

しかし、「結果はコントロールできない」ということが、何となくはわかっても、深い理解には至らないという方もいらっしゃるでしょう。

 

今回は、このことについて説明したいと思います。

 

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過去はコントロールできない

 

僕たちは過去の失敗について悔やむことがあるかと思います。

 

もしくは過去の嫌な記憶を思い出し、悲しくなったり腹立たしくなったりすることもあるでしょう。

 

「今の自分ならあのときこうするのに・・・」

 

「あのときのあいつの言動、許せないよ。」

 

しかし、どんなにそのように思っても、過去の自分の行動はコントロールできません。

 

今の「あいつ」に復讐することはできても、当時の「あいつ」に直接何かをすることはできません。

 

(もちろん、復讐もおすすめしませんが。)

 

「過去は返らない」

 

これはもう、使い古された言葉かもしれませんね。

 

「そんなことは今さら言われなくてもわかってる。」

 

そうお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、このことは、「結果がコントロールできない理由」と極めて密接に関係しているのだと僕は感じています。

 

結果はすべて過去のもの

 

表題の言葉を繰り返しますが・・・(笑)

 

結果とは、すべて過去のものなのです。

 

たとえ未来の結果であっても、それは例外ではありません。

 

未来のものなのに過去・・・?

意味がわからない・・・

 

そう思われる方もいらっしゃって当然だと思います。

 

しかし、結果の意味を見れば、そのことがわかります。

 

『結果(けっか)とはある物事を行った後に生じた現象、状況、物象をあらわす言葉』(出典:Wikipedia

 

結果は、物事を行った「後に生じる」のです。

 

つまり、未来のことであっても、自分の行動なり、時の流れなりを経たのちに結果が形成されるのです。

 

ものごとは、結果となった時点ですべて過去のものになるのです。

 

そして、先ほど述べたとおり、過去はコントロールできない。

 

すなわち、結果はコントロールできないということです。

 

勉強を「するかしないか」はコントロールできても、試験に「合格できるかどうか」はコントロールできないのです。

 

本を「読むか読まないか」はコントロールできても、その内容を「理解できるかどうか」はコントロールできないのです。

 

気になる彼女に「アプローチをするかどうか」はコントロールすることはできても、彼女が「どう反応するか」はコントロールできないのです。

 

だから、これらの結果を直接どうにかしようとすることは、コントロールできないものを変えようとしてもがいていることと同じなのです。

 

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現在の自分の行動に注意を向ける

 

もし、結果を変えたいのなら、今の行動をコントロールして、未来の結果に働きかけるしかないのです。

 

ならば、望む結果に近づくために、現在の自分の行動に注意を向ける。

 

※結果さえも望む気がなくなったのなら、もちろん「行動をしない」という選択もあり得るでしょう。

 

そして、結果となった時点で手放す。

 

もちろん、望む結果となったのなら、歓喜に浸ってもいいと思います。

 

残念な結果になったら、思い切り悲しんだり悔しがったりするのもいいと思います。

 

しかしそれももう過去のもの。

 

落ち着いたら、また、今という時間に意識を置く。

 

これが結果への建設的な関わり方ではないでしょうか。

 

「今ここ」の意味

前回記事で、「キャッチフレーズ」について述べました。

 

「キャッチフレーズ」は魅力的に響く分、よく「独り歩き」をする。

 

だから、もしそれらに振り回されて苦しいなら、その真意がわかるまで、むやみに信じようとすることを保留してはどうかとお伝えしました。

 

前回記事

hamamon91.hatenablog.com  

さて、マインドフルネスにも、僕が「独り歩き」を懸念している「キャッチフレーズ」があります。

 

それは「今ここ」という言葉です。

 

今回はこの言葉について、僕の意見を述べたいと思います。

 

 

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「今ここ」は行間にエッセンスが詰まっている

 

マインドフルネス関連の情報に限らず、スピリチュアルや心理の分野において、近年、「今ここ」という言葉が多用されているように感じます。

 

「今ここ」を生きましょう。

「今ここ」に集中しましょう。

 

適切に意味を理解していれば、この言葉は生きるうえで、非常に有効な指針になるものと僕は確信しています。

 

しかし、生真面目な人は、この言葉に囚われてしまい、「常に『今ここ』だけに集中し続けなければならないのか。」と感じてしまうかもしれません。

 

完璧主義で苦しむ人であれば、「過去のことや未来のことを考えてはいけないのか。」と思い、過去の思い出に耽ることや未来の計画を立てることさえもためらってしまうかもしれません。

 

そして、「今ここ」の自分の呼吸などに、無理やり自分の意識を縛り付けようとするかもしれません。

 

もしくは、「考えを止めなければならないのか。」と自分の思考を抑圧するかもしれません。

 

マインドフルネスを推奨する立場の僕ですが、マインドフルネスを実践することで、かえってあなたに余計な苦しみを負っていただきたくないので、あえて言いたいと思います。

 

「今ここ」は「キャッチフレーズ」です。

 

それはあなたのハートを掴むために仕立てられたシンプルな便利ワードです。

 

だから、その表面ではなく、行間にこそエッセンスが詰まっているのです。

 

この「キャッチフレーズ」の表面上の意味に囚われて苦しいなら、今は距離を置いてみてはどうでしょうか。

 

真意が腑に落ちるまで、一度この言葉を脇に置きましょう。

 

※それでも僕はこの「キャッチフレーズ」には好感を持っていますので、このブログでも時折使っています。

 

「今ここ」を自覚していればいい

 

「今ここ」とは、決して「今ここ」だけに注意を向け続けていなければならないということではないと僕は思っています。

 

湧き上がる思考を無理に抑えつけて、不自然な集中を作り出そうとすることでもないでしょう。

 

試してみればお分かりだと思いますが、自分の心を力づくで止めようとする試みは、かえって苦痛を増大する結果になるでしょう。

 

そんな苦行、僕はやりたくありません(笑)

 

マインドフルネスとは、自分に対する思いやりです。

 

こうしたやり方は、むしろ優しさから遠ざかっているのではないでしょうか。

 

「今ここ」とは、今自分が注意を向けているものを自覚しようとする態度だと僕は認識しています。

 

「今、自分は思い出に耽っている。」と知っているのであれば、過去の記憶に浸ってもいいのです。

 

「今は予定を立てている。」と気づいているのなら、未来のことに思いを巡らせることに何も問題はありません。

 

心は自分とは別の生き物

 

しかし、心は知らず知らずのうちに彷徨います。

 

自覚がないまま、今していることとは違うことについて考えが起こったり、今注意を向けようと思っていないものに気を取られたりします。

 

そのときは、自分が「そうであること」に気づけばいいのです。

 

そして、ただ気づくだけでもいいのですが、もし可能なら、再び今していることや、今注意を向けたいものにそっと意識を置きなおしてみましょう。

 

このように心が彷徨うことは、あなたが注意散漫だから起こるわけではなく、心の自然な働きです。

 

もちろん僕も、しょっちゅうそうなります(笑)

 

これは僕たちのコントロールを超えているのです。

 

心とは、自分の一部であって、自分ではない別の生き物でもあるのです。

 

だから、そうなる自分を責める必要はまったくないのです。

 

こうした態度を忍耐強く続けていると、自分が「今ここ」ではないどこかに注意を向けている時間がいかに多いかに気づくでしょう。

 

そして、注意はおのずと「今ここ」へと向くようになるでしょう。

 

少しずつ、「今ここ」に意識を置く頻度が増えることでしょう。

 

これが「今ここ」の真意なのだと、僕は解しています。

 

「キャッチフレーズ」と距離を置く

現代社会では様々な「キャッチフレーズ」が溢れているかと思います。

 

ライフスタイルに関しても、「断捨離」や「糖質制限ダイエット」など、ブームと呼べるほど多くの人に影響を与える言葉が存在しています。

 

これらの言葉を生き方や行動の指針として参考にしている方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

しかし、生きづらさを抱える人の中には、これらの「キャッチフレーズ」に振り回され、かえって苦しくなってしまったことがあるかもしれません。

 

完璧主義で苦しむ人は、「常にこの言葉を守らなければならない。」と自分の行動を縛り、かえって窮屈になってしまったかもしれません。

 

僕もそうでしたから、よくわかります。

 

もし「キャッチフレーズ」が、あなたが建設的に生きるための指針ではなく、あなたを束縛する重荷になってしまっているのなら、一度これらを根本から疑ってみてはどうでしょうか。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

「キャッチフレーズ」の独り歩き

 

「キャッチフレーズ」はものごとの性質を端的に表した言葉なので、とても魅力的に響きます。

 

しかしその分、よく独り歩きをします。

 

「断捨離」を例に取ってみます。

 

この言葉の表面上だけを見て、「とにかくモノを棄てればいいんだ。」と捉えている人は多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

そして、「モノを持たないことは善」という一元的な考えに囚われ、モノを持つことを悪者扱いする。

 

さらにその考えが先鋭化し、モノそのものを敵視してしまう人もいるかもしれません。

 

言葉の本質が重要

 

「キャッチフレーズ」に触れたときは、それらの表面上の意味を安易に鵜呑みにするのではなく、その真意が腑に落ちるまで、信じることを保留してみてはどうでしょうか。

 

「断捨離」も、その言葉の本質は、単なる「棄てることの奨励」ではないはずです。

 

身の回りをシンプルに保つことで、雑多な視覚情報に振り回されることを防いだり、本当に必要なものごとにエネルギーを集中することがその目的だと、僕は解しています。

 

だから、「断捨離」の実践に当たって、今持っている不要なモノを減らすために「棄てる」ことは必要かと思います。

 

しかし、本当に大事なことは、「棄てる」ことよりもむしろ、不要なモノを減らした後ではないでしょうか。

 

つまり、減らした後に、不要なモノをなるべく「買わない・もらわない」態度が重要なのではないでしょうか。

 

そこをはき違えて、「棄てさえすればいいんだ。」と、要らないモノを「買っては捨て、買っては捨て」を繰り返すのなら、モノを粗末にしているのと同じではないかと僕は思います。

 

このように、言葉というのは、その行間にあるニュアンスや、その奥にある本質こそが重要なのだと僕は感じています。

 

日本を代表する心理療法の「森田療法」でも、言葉の表面上の意味を鵜呑みにし、それに囚われてしまうことを「教条主義」と呼び、非建設的であると注意を喚起しています。

 

直感を信じる

 

しかし、そうは言ってもこの複雑な現代社会。

 

じゃあ一体、何を信じればいいの?と戸惑うかもしれません。

 

巷にはこれだけ情報が溢れていますからね。

 

その気持ち、よくわかります。

 

僕は「自分の直感」こそ、信じるに値するものだと感じています。

 

もちろん、魅力的な「キャッチフレーズ」や他者が発した意見も、大いに参考になることもあるでしょう。

 

それらが心からあなたにとって信じられるものなら、とことん信じていいと思います。

 

しかし、もしあなたがそれらの言葉にどこか違和感を覚えているのなら、その違和感を信じてみてはどうでしょうか。

 

もし可能なら、一度立ち止まって、それらの言葉の意味を確認してみてはどうでしょうか。

 

それでも信じられるかどうかわからないときは、その「わからない」を信じていいのではないでしょうか。

 

今はわからないままにしておいていいのではないでしょうか。

 

その言葉の本質を知るまで、むやみに肯定も否定もせず、ただそれらと距離を置いておけばいいのではないでしょうか。

 

いずれそれが信じるに値する言葉かどうか、自然とわかるときが来るでしょう。

 

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実は、マインドフルネスにおいても、独り歩きしているのではないかと僕が懸念している「キャッチフレーズ」が存在します。

 

次回はそれについて、お話ししたいと思います。

 

(続く)

 

マインドフルネスの効果について証言⑥ ~まとめ・効果は全て副産物~

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ここまで、僕が実感したマインドフルネスの効果について述べてきました。

 

マインドフルネスの実践によるこれらの効果は、僕の生きづらさを根本から大きく改善してくれました。

 

しかし、ここで断っておきたいことがあります。

 

それは、深い意味において、僕自身は何も変わっていないということです。

 

何か「特別な自分」になったわけではありません。

 

注意の向け方が変わった

 

では、一体、これらの効果はどうして起こったのでしょうか。

 

前回の記事で僕が述べた持論。

 

人間が真の意味でコントロールできるのは、現在の自分の行動と注意の向け方の2つだけであるということ。

 

マインドフルネスは、注意の向け方をコントロールする格好のトレーニンなのでしょう。

 

もちろん僕も、瞑想の実践中は、そのように自覚してやっているわけではありません。

 

しかし、結果的に瞑想の実践が、「何にどれぐらい注意を向けるか」を調整する訓練になっていたんだと思います。

 

注意の向け方が変わると、ものごとへの関わり方が変わります。

 

僕に現れた効果は、注意の向け方の変化によるものなのだと、僕は感じています。

 

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それそのものが目的

 

何か特別な効果があると聞いたものには、飛びつきたくなるのが人情でしょう。

 

そういう意味では、最近の「マインドフルネスブーム」は頷ける部分はあります。

 

マインドフルネスには脳の活性化の効果があり、生産性の向上に寄与するということで、大手の企業も研修などで取り入れていると聞きます。

 

たしかに企業の社員研修なら、そうした「目先の効果」に着目するのも理解はできます。

 

しかし、僕は生きづらさ改善のためのメソッドとして、マインドフルネスを紹介しています。

 

そうした目的で実践するなら、僕は瞑想の「目先の効果」に期待して一喜一憂するのではなく、瞑想を深めていただきたいなと思います。

 

※とはいえ、気負う必要はまったくありません。

 

マインドフルネスの効果は、あくまで「副産物」です。

 

僕に現れた効果もしかりです。

 

マインドフルネスとは、実は効果を期待して行うものではなく、それそのものが目的なのです。

 

究極的には、「マインドフルネス = 生きること」だと僕は思っています。

 

「なんのこっちゃ」という感じかもしれませんが(笑)、マインドフルネスを深く実践すればおのずと体感することになると思います。

 

※先ほど「生きづらさ改善のためのメソッドとしてマインドフルネスを紹介する。」と述べましたので、「それそのものが目的」と言うと、一見矛盾するように感じるかもしれませんが、ここは思考や言語のレベルでは説明できない部分です。

 

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 合わなければやめればいい

 

マインドフルネスはこのように、僕にとっては非常に有効なものでした。

 

しかし、この連載記事の始めのほうでも触れましたが、どんなメソッドにも残念ながら、「合う合わない」はあるかと思います。

 

生きづらさ改善のメソッドとしてマインドフルネスを実践した場合であっても、一向にそうした効果が感じられないという人もいるかもしれません。

 

もちろん僕も、そんな風にはなってほしくないと願っていますが、そうしたケースがあるということも致し方のないことです。

 

そのようなときは、迷わずマインドフルネスという方法を諦めていただいていいと思います。

 

生きづらさを改善するための方法はほかにもたくさんあります。

 

「それのみが全てではない」のです。

 

僕も自己啓発心理療法など、様々な方法を試み、失敗を重ねた末にマインドフルネスに辿り着いたのですから。

 

これまでも苦しんできたであろうあなたには、これ以上、合わないやり方に固執させてつらい思いをしてほしくないのです。

 

あなたには、今のあなたに合う方法がきっとあるはずです。

 

しかし、生きづらさ改善のためのマインドフルネスは、即効性があるものではないので、少なくとも3か月は、なるべく毎日実践してみていただきたいと思います。

 

そのうえで、「合う合わない」の結論を出してみてはいかがでしょうか。

 

さて、マインドフルネスの効果について、僕からの証言は以上とさせていただきたいと思います。

 

少しでも皆様に、マインドフルネスの魅力や有効性を感じ取っていただければ幸いです。

 

長きに渡ってお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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マインドフルネスの効果について証言⑤ ~「できない自分」を許す~

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僕はマインドフルネスにどのような効果を感じたのか。

 

それを証言するこの連載記事も、いよいよ終盤に差し掛かりました。

 

↓↓ この連載記事の意図および注意事項 ↓↓

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これまでお話ししたマインドフルネスの効果のうち、枝葉に当たるものが積み重なり、僕は少しずつ「できない自分」が許せるようになっていきました。

 

今回はそれについて、詳しく述べたいと思います。

 

成功哲学」に振り回される

 

完璧主義で苦しんでいた僕にとって、失敗はとても恐ろしいことでした。

 

「成功しない自分には価値はない。」

 

そう信じていました。

 

ですから、常に「失敗してはいけない。」と、何かに駆り立てられるようにむやみに行動していました。

 

心から安心できる時間はほとんどなかったのではないかなと思います。

 

書店に並ぶ自己啓発本には、様々な「成功哲学」が記されています。

 

僕はそれらの通りにすれば、幸せになれるに違いないと信じていました。

 

成功を重ねた先に何か楽園のような安住の地があり、そこに到達すれば、もうこのような苦しみから抜け出せるのではないかと期待していました。

 

しかし、実際はまるで逆でした。

 

成功哲学」の通りにできなかったときは、自分を責める。

 

仮にうまく成功したとしても、ひとときの満足はありますが、またすぐに次の成功へと心が駆り立てられる。

 

いつまで経っても心が休まることはない。

 

終わりなき戦い。

 

まるで修羅界でした。

 

「存在」あってこその「行動」であることを知る

 

それまでは、自分の「行動」とその結果に執着していました。

 

しかし、マインドフルネスの実践により、僕は「今、ここにいる自分」の「存在」に意識を向ける時間を持つようになります。

 

すると、少しずつ自分の「存在」を確かなものと信じられるようになったのです。

 

つまり、成功しようと失敗しようと、僕は変わらず「存在」しているのだと感じられるようになったのです。

 

たしかに「行動」は大切かもしれない。

 

その結果も気になるだろう。

 

しかし、「存在」があるからこそ「行動」ができるのだ。

 

真に偉大なものは「存在」であって、「行動」やその結果は付随物なのだ。

 

この認知の変化は、僕にとって革命的なものでした。

 

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結果への執着を手放す

 

この気づきから、僕はある確信を得ます。

 

それは、「結果はコントロールできない」という真実です。

 

「努力をすれば何でもできるようになる」という「成功哲学」を心から信じる人にはとても受け入れがたい言葉かもしれません。

 

突き放したような言い方で申し訳ないのですが、そうした信念をお持ちの方には、このブログはお役には立てないと思います。

 

なぜなら、そうした成功を追い求めること(=達成ゲーム)に疲れ果てた人や、成功よりも安らぎを望む人に向けて発信していますので。

 

何度かこのブログで申し上げているのですが、僕たちが直接コントロールできるのは「行動」と「注意の向け方」の2つだけだと僕は思うのです。

 

我々は結果をコントロールしているように見えるかもしれませんが、実際に僕たちができるのは、「行動」をコントロールして結果に働きかけるところまでなのではないでしょうか。

 

つまり、「やるかやらないか」はコントロールできても、「できるかできないか」はコントロールできないのです。

 

完璧主義で苦しむ人にとって、このニュアンスの違いはとても大きなものであると僕は感じています。

 

結果を「こうあるべきだ」とジャッジし、そのようにできない自分を否定することは、実は全くナンセンスなのです。

 

※もちろん、そのような思考も自動的に起こってしまうものなので、責める必要はないのですが。

 

これは努力など無駄だとか、結果を気にしてはいけないということではありません。

 

むしろその逆です。

 

望ましい結果を欲するのは人情ですから、結果は気になって当然でしょう。

 

結果がコントロールできないからこそ、望ましい結果に近づけるように「行動」することは尊いのだと僕は思います。

 

しかし、「行動」のベースとなるのはあくまで「存在」であること。

 

これを体感レベルで知っていることは、結果への執着を手放すうえで非常に有効でした。

 

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そして自分に優しくなる

 

これらの洞察から、僕はこれまで、いかに「できない自分」を許してこなかったかに気づきます。

 

「これはできない」「ここまでにしてほしい」と心が訴えていることでも、無理にさせようとしてきました。

 

僕は誰かと競争していたのではなく、自分と戦っていたのです。

 

「やってもできないこと」はもうやらなくてもいいのだ。

 

そう感じられるようになりました。

 

それからというもの、少しずつ僕は自分に優しくなっていきました。

 

そして、自分に優しくなるに伴い、他者にも優しく接する余裕が生まれるようになりました。

 

他者を思いやるには、まず自分から。

 

これらの経験から、僕は強くそう感じます。

 

さて、僕に現れたマインドフルネスの効果について、数回に渡って述べてきましたが、いよいよ次回、この連載記事のまとめとさせていただきたいと思います。

 

(続く)

 

マインドフルネスの効果について証言④ ~直感が磨かれる~

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マインドフルネスを実践し、僕はどのような効果を感じたのか。

 

この記事では、マインドフルネス経験者の一人として、その証言を行っています。

 

僕はマインドフルネスでどのように生きづらさが改善されたのか。

 

少しでもそれらをお伝えできれば幸いです。

 

↓↓この記事の目的と注意事項を記しています。 

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 今回は僕に表出した効果のうち、直感が磨かれるということについてお話ししたいと思います。

 

「感じ方がわからない」という苦しみ

 

生きづらさを抱えた人から、「自分の本当の感じ方がわからない。」という声をよくお聞きします。

 

僕もかつてはそうだったので、よくわかります。

 

アダルトチルドレン愛着障害と言われるような心の癖があったので、よく自分が自分ではない感覚になることがありました。

 

前回の記事でも触れましたが、日本では大人が子供の「感じ方」にまで口出しをする傾向があるかと思います。

 

あなたも子供の頃、大人に自分の素直な「感じ方」を訴えたときに、激しく非難や叱責をされたことがあるかもしれません。

 

そうしたことが続くと、自分の「感じ方」が信じられなくなってしまうのは無理もないことでしょう。

 

ここではこんなふうに感じていいのだろうか。

 

自分が今感じている「好き」は、本当に「好き」なのだろうか。

 

自分の「感じ方」は本当に「正しい」のだろうか。

 

そのように思ってしまうのですね。

 

しかしそれは決してあなたが「悪い」わけでも「弱い」わけでもありません。

 

あなたの「感受性」が強いからなのだと僕は思っています。

 

なぜなら、生きづらさを抱える人は、総じて「感受性」が高い傾向がありますので。

 

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「感じ方」は思考を超越する

 

マインドフルネスを実践することで、僕は自分の思考や感情を「自ら評価を下さずに」観察する習慣を身につけました。

 

また、思考に囚われそうになったときは、体の感覚に注意を向けられるようになっていきました。

 

そのことによって、「感じ方」は思考を超えたところにあるということを感じるようになりました。

 

様々な内容の思考が自動的にポンポンと起こります。

 

たしかにそれらは自分の中に存在していますし、内容によっては不快さを伴います。

 

しかし、それらは空にかかる雲のようなものです。

 

どんなに厚く雲がかかっていようと、それらの上層には変わらず青空が広がっている。

 

同様に、どんな思考が起ころうと、その向こう側には「感じ方」という空がある。

 

つまり、深い意味において、「感じ方」は自分にとって不変のものなのだ。

 

自分が今、感じていることこそ、「感じ方」の「正解」なのだ。

 

※もちろん「感じない」のであれば、それがあなたの「正解」です。

 

そう気づいたのです。

 

「感受性」を活かす

 

この気づきによって、僕は自分の「感じ方」を信じられるようになりました。

 

それに伴い、直感が磨かれるようになりました。

 

皆さんもあるのではないでしょうか。

 

「何か違和感がある。」とか「なんとなくこれがいい。」と感じる場面が。

 

これは直感が働いているときに現れる感覚です。

 

それらの感覚を信じられるようになることで、僕は思考に振り回される機会が減りました。

 

現代は思考偏重であると感じます。

 

僕も子供の頃から、周囲によって論理的思考の大切さを教え込まれました。

 

もちろん思考が人間に備わった偉大な能力であることは、僕も大いに認めるところです。

 

思考と直感は車の両輪ではないでしょうか。

 

どちらか一方だけあればいいというものではなく、どちらも大事なのではないでしょうか。

 

どちらを多用するかは、個人差があるかと思います。

 

思考が得意な人であれば、直感より思考を多用するということは自然でしょう。

 

要は自分にとって程よいバランスであることが重要ではないでしょうか。

 

しかし、前にも触れましたが、生きづらさを感じている人は「感受性」が高い傾向があるかと思います。

 

また、考えすぎてかえって裏目に出てしまうという人もいるでしょう。

 

それなら、直感を磨いてみてはどうでしょうか。

 

それによって、ものごとが好転するかもしれませんよ。

 

少なくとも僕は、直感が働く機会が増えることで、選択に迷ったり、その選択に後悔することが少なくなったように感じます。

 

せっかくあなたに備わった「感受性」という才能なのです。

 

鈍感な人や能天気な人の真似をしようとするのではなく、その才能を活かしてみるのもいいかもしれません。

 

(続く)

 

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